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現代のカミカゼ精神 日本人の理想主義と自己愛

Posted by SJ on 22.2015 日本社会   2 comments   0 trackback
前回の記事(「拝啓 林真理子様」)を書くきっかけとなった、川崎中一殺害事件。
関連の報道を見ていて強く感じたのが、おそらく日本人特有の、高い理想主義。私はこれを現代のカミカゼ精神と呼びたいと思う。

林真理子氏の主張に代表される「被害少年の母親が子供にちゃんとかまっていなかったのが悪い」という見方は、少なくとも一部で強い支持を得ているらしい。
私が前回の記事で主張したのは、被害少年の母親は人間なのだから、母親としての役割を果たすためには母親本人の精神の安定が必須であるのに、被害者の母親を批判する人はこの視点を根本的に欠いている、ということ。
言い換えれば、批判者たちは「母親」という果たされるべき役割だけに着目していて、この母親が人間であるということを無視している、ということ。

戦争の歴史について特別学んだわけではないけれど、「永遠の0」で書かれているように、大日本帝国軍が誇った零戦というかの有名な戦闘機は、飛行距離等の性能は抜群に優れていたけれど、そこに乗る人間の体力、さらには生命を軽視した戦闘機であったという。
これはつまり、「戦闘機」という役割だけに着目して特定の性能を向上させる傍ら、「戦闘機乗り」は体力に限界があって生命が一つしかない生身の人間であることを無視していた、ということではなかろうか。

極端な飛躍に見えるかもしれないが、私には、「母親」としての役割だけを強調して被害少年の母親自身に人間性(精神的および肉体的限界)を認めないことは、「戦闘機」の中にいる戦闘機乗りの人間性を軽視したのと全く同じ精神に見えた。

この精神は、つまり、人間は「役割」を果たすことが絶対で、人間であるがゆえの当然の限界はそれを果たせないことの言い訳にはならないというもの。

考えてみれば、日本社会にはこういう人間性を軽視した「役割」主義が蔓延しているではないか。
有給休暇の消化率が低いことは、すなわち、休んで気持ちを切り替えたりストレス発散する必要性を認めないという風潮の強さを表す。極端にいうと、社員は会社のために働くものであって、心身の健康など問題でない、ということ。
根強い性別役割分担や男女間の貞操観念の違いも、「女性はこうあるべき」という役割主義の一形態と取れる。個人の考え方や趣味嗜好といった人間性には当然敬意が払われない。

「母親の役目」とか「社員の務め」とか「女性らしさ」とか、こうした「役割」というのはいったい何なのか?
それは社会的に作り上げられた理想に過ぎない。
公的秩序の維持や社会の発展のためによしとされる理想的な振る舞いを「果たすべき役割」と規定し社会の構成員に刷り込む。それが我々現代日本人の精神に刻み込まれる。
刷り込みは無意識のうちに広く浸透するゆえに、俗に「国民性」などと呼ばれる日本人共通の精神となる。

そして、多くの現代日本人がこういう理想主義に拘泥する背景には自己愛があると思う。

昨今、海外特に「世界の秘境」とやらで奮闘する日本人を涙ぐましく追ったテレビ番組が目に付く。
日本を誇りたいという願望を揶揄した「愛国ポルノ」といった造語も見られる。
同じような傾向のものとして、大東亜戦争を猛省する姿勢は「日本が過ちさえ犯さなければ」という一種のヒロイズムに裏打ちされているという興味深い議論を目にしたことがある。自身をヒーローに見立てたヒロイズムは自己愛の一形態であろう。

このように、日本社会には、「日本は素晴らしい国で、日本人は素晴らしい民族であるはず」という自己愛が昔も今も脈々と息づいているのではないか。
左翼と呼ばれる人は思考の根底にある種のヒロイズムを抱え込んでいるだろう。
右翼と呼ばれる人は日本人としての自己愛がもっと前面に出て、他者の言い分と衝突するのだろう。

自己愛の強さゆえ理想を重んじ、理想の追求のために人間性を犠牲にする精神。
それが私の言う現代のカミカゼ精神。
(カミカゼという言葉を使うのは、あくまで零戦の非人間性を引き合いに出したいからで、特攻隊として散った人々の精神を云々するものではない。)

そしてこれは賛美されるべきものでは決してない。

人間は脆いし、弱いし、あっけなく死ぬ。
働きづめで精神を病む人もいるし、過労死する人もいるし、思いつめて自殺する人もいる。
人間性を無視した社会など、息が詰まるだけ。
海外に逃げたがる日本人は実際にいる。お金に余裕のある家庭では子供をインターナショナルスクールに入れ、留学させる。
日本社会は他ならぬ日本人に見放されつつあるのだ。
だから愛国心に訴えて必死につなぎとめるのだ。その触媒が愛国ポルノだ。

我々は人間を再発見しなければならないのではないだろうか?
理想や役割にからめとられるのではなく、我々は皆、脆くて弱い人間であると認め、おなじ人間として理解し合い支え合わなければいけないのではないだろうか。

そうでなければこの世はあまりにも冷酷だ。
川崎で殺害された少年の母親を糾弾する人々は、きっと自身も人間性を失ってしまったのだろう。
そうでなければ、わが子を亡くした生身の人間を非難することなどできるはずがない。

拝啓 林真理子様、 気の毒なお母さんの子供より

Posted by SJ on 17.2015 日本社会   0 comments   0 trackback
週刊文春3月19日号の夜ふけのなわとび「お母さん、お願い」を拝読し、どうしても申し上げたいことがあります。

林真理子様、
あなたはこの記事の中で、川崎の中一殺害事件について
「(被害少年の)お母さんがもっとしっかりしていたら、みすみす少年は死ぬことはなかったはず」と仰いました。
「ふだんから子どものことはかまってやらず、うちの中はぐちゃぐちゃ。そして恋人がいたという。典型的な『子どもの貧困』問題だ」と被害少年の母親を糾弾されました。

「テレビのバラエティを見ていると、離婚した女優さんやタレントさんが、そのことをネタにして面白おかしく話している。離婚してとても自由に、幸せになったように語る。あれではふつうの人たちが誤解しても仕方ない」と、
芸能人が離婚をポジティブに語ることが、稼ぎの多くない「ふつうの」女性に、離婚に対して間違った印象を与えていると指摘した上で、
「世の中にはびこる、『母であるよりも女でいたい』などという考えも、二の次に置いてほしい」と、
離婚した「ふつうの」女性に呼びかけられました。
さらに踏み込んで、
「もし離婚をしたとしたら、子供が中学を卒業するぐらいまでは、女であることはどこかに置いといて欲しい。...
そしてセックスとかそういうことで、現実逃避しないで欲しい。お願いしますよ。」と、
離婚した「ふつうの」女性にお願いされました。

そしてあなたは空しくなったと仰いました。
なぜなら「こういうことをするお母さんが、この『週刊文春』を読んでいるとは到底思えない」、「雑誌を読む習慣を持つ人というのは、恵まれた層の人たちだ」と。

そして、行政や近所の女性に対する呼びかけとして、このように記事を結ばれました。
「どうか気の毒なお母さんたちに手を貸してあげてほしい」、と。


林真理子様、
もしあなたの言う「気の毒なお母さん」が、稼ぎの多くないシングルマザーを指すのなら、私はある「気の毒なお母さん」に育てられた人間です。

離婚後、母は朝から晩まで働きづめで、あなたの仰るように、私や私のきょうだいに満足にかまうこともできず、家の中はぐちゃぐちゃでした。
直接聞いたわけではないし会ったこともないけれど、母には恋人がいた時期もあったようです。
恋人の存在を知った当時の私は、確かに快くは思いませんでした。母親を奪われたような気分だったのだと思います。
頼れる人がこの世に一人もいなくなったような気がして泣いたことは今もよく覚えています。

でも、両親の離婚から15年以上の時が流れた今、私は同じようには思いません。
シングルマザーは「親」である前に、そして「女」である前に、一人の血の通った人間です。
感情の起伏に富み、他人の言葉に一喜一憂し、時に人に甘えずにはいられない、他の全ての人間と同じ、ただの一人の人間です。

あなたは、離婚した女性には子どもが大きくなるまでは「女」であることを二の次にしてほしいと言いました。
川崎の被害少年の母親に恋人がいたということを念頭に置かれてのご意見と推察します。

私はひとつ大きな疑問を持っています。
恋人を作ることは「女であること」を優先しているということなのですか?
恋人とはセックスをして現実逃避するための存在なのですか?
私はそのようには思いません。

離婚後、母には精神面で頼れる人がいませんでした。甘えられる相手、心の支えとなる人がいませんでした。
私は、母はそれを恋人に求めたのだと思っています。
女であるためではなく、母親として懸命に身を粉にして働く自分を、一時休める心の拠り所として。
現実から逃れるためでなく、現実に向き合い続けるための支えとして。
そしてこういう甘えは、決して「女でいたい」という願望とひとくくりにされるものではありません。
男女を問わず普遍的に持っている安らぎの希求。実に人間的で根源的でありながら、性的欲求とはかけ離れた欲求であると私は思います。

母は女であるためや現実逃避のためなどではなく、精神的支えとして恋人を必要としました。
そして精神の支えを得たことで、私たち子どもにも優しく母親らしくいられたのだと思っています。
当時の私が恋人に代わるような役割を果たすことはどうやってもできなかったのですから、母親がそういう相手を見つけられたことは、母親にとってのみならず、私たち子どもにとっても幸運なことであったのだと思います。


しかし、このように書きながら、私は次第に空しくなってきました。

私は「気の毒なお母さん」に育てられた人間ですから、「恵まれた層」の人間ではないのでしょう。
だから、残念ながら、あなた方「恵まれた層」の人々が、果たして上に書いたような私の思う普遍的人間的欲求を持っているのかは確かめようがありません。
どうもあなたの文章を読む限りでは、「恵まれた層」の人々にとっての恋人というものは、自分が女であるためにセックスをする相手のことを言うのでしょうか。私には想像もできないことです。
もしかして本当に、「恵まれた層」と「恵まれない層」の間には、その精神構造や思考様式に、理解も想像も及ばない大きな隔たりが存在するのでしょうか。
そうだとしたら、ここでとうとうと恵まれない層の身の上話をしたところで、恵まれた層の人々には何一つ響くものはないのでしょう。


でも、少なくともひとつ役に立つことをお教えできると思います。

「恵まれない層」の私に、もし誰かが、「気の毒」だから手を貸してあげようという考えで手を差し伸べるのなら、
私はその手を振り払いたい。
誰かから見て私が「恵まれない層」であったとしても、私には誇りがあり、自分の人生を精一杯自分の力と自分のやり方で生きているのです。
そこに突然誰かがやって来て、私を「気の毒」だと言ったとしたら、それが私にとってどれだけ屈辱的なことか、あなたには想像できませんか?

「恵まれない層」の思考様式はこういうわけですから、あなたの「どうか気の毒なお母さんたちに手を貸してあげてほしい」という呼びかけは、撤回された方がよいと思います。
それは弱者に対する憐憫の情の押し付けでしかなく、あなたの言う「気の毒なお母さん」たちは、そんなものを望んではいません。

川崎の事件では、仕事に忙しくて十分に子供に注意を払えないお母さんに代わって、近所のお母さんが被害少年の行動に気を付けていれば、今回のような最悪の事態は防げたのかもしれません。
でも、地域ぐるみで子どもを見守り、育てるといった動きは、ある家庭が「気の毒」だからという理由から生まれてくるものではありません。
そこに介在するのは信頼と思いやり、連帯感です。
そして、本当にこの世に「恵まれた層」と「恵まれない層」が存在し、その間に隔たりや落差があるのなら、そこに信頼や思いやりや連帯感といった類の意識が芽生えるのは、きっととても難しいことなのではないかと私は思います。

だから、私は、そんな階層は「自分は恵まれている」と思いたい一部の人々の幻想にすぎず、世界はもっと平らで可能性に満ちていると信じたいと思います。

敬具

夢の人

Posted by SJ on 19.2015 プライベート   0 comments   0 trackback
今朝目覚める直前にすごく短い夢を見た。それまで別の夢を見ていたのに急に画面が切り替わるみたいにその夢が始まった。

私がビデオ撮影でもしているみたいに、最初少し離れたところに見えた光景が近づいてくる。
座敷のテーブルを囲んで人が15人ほど談笑している。その中には現実世界で私が知っている人にとてもよく似ている人が何人かいて、知らない人もたくさんいて、でも私は直感的にこの集団がどういう関係なのかわかった。

テーブルの向こう側中央には若い男性と女性が並んで座っていて、その男性は私の知っている人にそっくりで、でも現実のその人より少し若く見えた。
女性は遠目に見たとき私の知っている人に似て見えたけど、近づいてみると全然似ていなくて、私の知らない人だった。

並んで座るその二人はとても幸せそうに笑っていて、男性は新郎が着るような薄いグレーの品のいいスーツを着ていたものだから、私は最初その二人が結婚でもするのかと思った。

でも近くに来て会話を聞いてみると、女性は斜め向かいに座っている別の男性と結婚することが決まったようで、それをこの場で初めて公表して他の人から祝福されていた。斜め向かいの男性は私が立っている側に座っているから、背中を向けていて顔は見えない。
祝福の声の中で耳なじみのある声が聞こえた。声の主は私の視線の左手前に背中を向けて座っている男性で、現実世界で私がよく知る人だった。

祝福ムード一色の中で、グレーのスーツの男性は急に思いつめた表情になって黙り込んだ。さっきまでの幸せそうな笑顔は消え去り、最後は冷やかに一人席を立ってしまった。

女性は終始幸せそうな笑顔のままだった。

そこで目が覚めた。

いろんなことを考えた。

こんな短い夢の中で途中劇的に状況が変わったのは、たぶん私の意思で無理やり捻じ曲げたということだろうと思った。
でもグレーのスーツの彼の思いつめた顔を見たかったわけじゃない。


グレーのスーツの男性にそっくりな私の友人は今どんな表情をしているだろうか。
もうしばらく会っていないし、どこかでばったり会うような気もしない。
また思いつめて泣いてはいないだろうか。
そうだとしても、もう何もしてあげられない。

どうか幸せで、笑っていてくれたらいい。

そんな思いで迎えた朝だった。
窓の外では柔らかそうな雪が舞っていた。

メディア接触に見る思考放棄

Posted by SJ on 24.2014 メディア   0 comments   0 trackback
とても長い間更新が止まってしまいました。

著者は前回更新時と変わらず、日本に拠点を置いて人道支援に携わっています。
仕事をする中で、そして日本で日常を過ごす中で、アフリカの国や援助をめぐる情報発信と大衆の受容のあり方について思うところがあったので、文章にまとめておこうと思い、筆を執りました。

筆者は家にテレビがないので、たまに実家に帰ったときか出張でホテルに泊まった時しかテレビを見ません。
そんなわけで世の流行にめっぽう疎いのですが、
先日実家で母が録画していた番組を見て愕然としました。
以前も別の記事で触れたかもしれませんが、外国で暮らす日本人の半生をドラマティックに描く類の番組の一つです。
その回のキャッチフレーズ(?)が、
「西アフリカの秘境、ガーナ」(に嫁いだ日本人)

「秘境」という言葉が流行っているのは知っています。今年の新語・流行語大賞の候補にも入っていると聞きました。
本来の意味とかけ離れて使用されているのかもしれませんし、テレビ的演出なので仕方ないのかもしれませんが、
ガーナは政治的にも経済的にも比較的安定し、西アフリカの中心的役割を果たしているといえる国の一つです。
そのガーナを一国まるごと秘境呼ばわりとは、誇張にもほどがあろうと思ってしまいました。
しかもこのフレーズを番組放映中ずっと画面右端に表示し、CM明けのたびに毎度アナウンスするのですから、洗脳かと思ってしまいます。

でもそんなゆがんだ情報をすんなり受容する視聴者もいるのかと思うと、残念の一言です。
仕事をする中でも、メディアに感化されやすい人々の情報リテラシーの低さを非常に危惧しています。
テレビや新聞で流れる情報など、作り手の作為によって切り取られ誇張され、当人の主観で歪められているというのに、それに注意を払うこともなく感情のままに受け入れ騒ぎ立てる。
ソーシャルメディアで容易に形成される集団心理でその感情的な反応が増幅され、単純化され元の情報からも乖離していく。
ネットニュースのコメント欄や掲示板サイトなどを見ていると、そもそも情報をきちんと読めない人も散見される。
こういった単純化や誤認識が共鳴しあい、わかりやすく感情に訴えるようなストーリーが出来上がってしまう。
それはもう、元の情報を下敷きにして、美しいものは徹底的に美しく、おぞましいものは徹底的におぞましく脚色されたフィクションでしかないのです。

わかりやすい例で言えば、「イスラム過激派=悪」とか、もっといくと「イスラム=悪」とか、そういった単純化されたストーリーです。
イスラム過激派を擁護するわけではありませんが、彼らも人間で、彼らなりの理由があって過激派に合流して、彼らなりの正義を信じて行動しているのであって、そういった根本原因を見ようともせずに批判するのは浅はかです。
単純化されたストーリーは善悪の区別を明確にしてくれるから、受け取り手は何も考えずに悪の側を批判して善の側を擁護し応援すればいい。
こういったフィクションは私たちの思考を必要としない、裏返して言えば思考を停止させるものです。

筆者が大学生のころ、物質社会における人の三大欲求とは「もっと安く、もっと早く、もっと便利に」だと聞きました。
「便利」とは何なのでしょうか。
自動ドア、エレベーター、オートマチック車、自動ブレーキのような自動化のことでしょうか。
スマホの音声アシストのような手軽なサービスのことでしょうか。
ATMやオンラインバンキングのようにいつでも都合のいい時に使えるということでしょうか。
結局、どれも人間が難しい作業や手間のかかる行為をするのを避けられるということです。
それはつまり人間が思考する機会を奪っているということではないでしょうか。

何も考えなくても機械の簡単な指示に従っていれば生きていける、便利な世界。
そこで暮らす私たちは、次第に物を疑ったり自分で思考することを煩わしく思い、情報にも便利さを求めているのでしょうか。
善か悪かの二極対立が鮮明で、頭を使わなくても感情だけで判断できる便利な情報を求めているのではないでしょうか。

ナイジェリアのモスクでボコ・ハラムによるとされる自爆テロ・襲撃事件があり120人が死亡したというニュースについて、こんなコメントがありました。
(ソース:http://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20141129-35057206-cnn-int&s=lost_points&o=desc&p=2)

「イスラム国もボコ・ハラムも何をしたいのだか ただの殺戮にしか見えない。」

イラク・シリア地域のイスラム国とナイジェリアのボコ・ハラム、どちらもイスラム法に則った国家の建設を謳っている組織ですが、それを知らずのコメントなのか、知ったうえで殺戮にしか見えないと皮肉を言っているのでしょうか。

イスラム国家の建設を目指しているという共通点に加え、どちらの組織も反西洋の姿勢を鮮明にしています。
イスラム国は欧米列強が引いた国境を否定し、拘束した欧米人を処刑していますし、ボコ・ハラムは組織名からそもそも「西洋の教育は悪」と西洋的価値観を否定しています。
何をしたいのかは内部、しかも幹部クラスの人間にしかわからないでしょうが、ただの殺戮にしか見えないというのは思考の放棄以外の何物でもありません。

また、同じ記事に
「昨今のイスラム教過激派は、単なる犯罪者集団にしか見えない。もはや、理想すら持ってないと思う。」
というコメントもあります。

昨今の~ということは、かつてのタリバンあたりと比較しているのでしょうか。
結成当初のタリバンは、その名の通り神学生が結成したもので、腐敗した軍閥による支配を打倒するという清廉な理想を持った組織であったと聞きます。
無宗教の人間から見れば宗教などどれも詐欺のようだとも言えますが、動員されている子どもや若者は外部の人間からすれば洗脳されていると言っていいほど熱心に組織の掲げる理念を信奉していたりします。
また、職を得られない者は生活の糧を得るために戦闘員として合流するなど、理想ではなく現実的な選択、要は生存戦略として組織に加入することもあります。
こういった組織も一枚岩ではなく、様々な理由を持った成員で構成されています。そうした人をひとくくりにして犯罪者集団と断じるのは、感情的な反応でしかありません。

決してコメントした個人を糾弾したいのではなくて、こういった形で単純化された善悪のストーリーがネット上で匿名の多数から賛同を得て固定化され、広く定着していくのは由々しき事態ではないかということを言いたいのです。
情報の受容の仕方に問題があるのでは、正しい情報を発信しようとしても発信側にできることは限られているのかもしれない。

どうしたら「悪」のイメージで定着してしまったものに対する正しい理解を促すことができるのか、考え、行動しなければいけないのだと、思いを新たにしています。

オレンジ色の世界で -イラク・シリア難民キャンプ-

Posted by SJ on 06.2014 旅行・出張   0 comments   0 trackback
何か月も更新が止まってしまいました。
前回と同じく、今回も出張先からの更新です。

現在筆者は仕事でイラク北部のクルディスタン地域(クルド自治区)に来ています。

さしあたりの拠点はアルビル市。
仕事の現場はここクルディスタンに点在するシリア難民キャンプ。

外務省の渡航情報ページの色分けはアルビル市が黄色、その他クルディスタン地域がオレンジ。
白抜きもあわせて五段階の色分けのうち、一番危険とされる赤は一般の邦人は退避勧告・渡航禁止なので、それに次ぐオレンジは実質渡航可能な中で最も危険度が高い地域ということになります。
筆者は今回(おそらく)初めてオレンジの世界に足を踏み入れました。
(ナイジェリアでクロスリバー州に行った当時、あそこは黄色だったかオレンジだったか・・。)

外務省の色分けについては別に一本記事を書けるくらい色々思うところがありますが、それは今回は脇へ置いておいて。


筆者は今回、難民キャンプというところに初めて足を踏み入れました。
よくUNHCRの広告なんかで目にする、砂地に延々と白いテントが並んだ光景。
あれが目の前に広がって、その中を歩くのです。


どんな悲惨な環境で、どんな悲壮な顔をした人が暮らしているのだろうか。
キャンプじゅうに病がはびこり、子供は栄養失調に苦しんでいるのだろうか。
そう思うでしょうか。


それは必ずしも難民キャンプの真実ではありません。

難民キャンプで筆者を迎えたのは、

凧上げをして楽しげに遊ぶ子供たち、
テントに手招きしてお茶に誘ってくれるお母さん、
そしてキャンプ内にぽつぽつと並ぶ小さな商店や露店。

そこにあったのはごく当たり前の人の営みで、無邪気な笑い声で、しなやかな生命力でした。

実際、このあたりの難民キャンプは「五つ星キャンプ」とも呼ばれる、比較的整備の行き届いたものです。
一方で、世界には本当に劣悪な環境の難民キャンプも存在すると言います。
今であれば中央アフリカや南スーダンから10万単位の難民が発生していますが、国際社会からの援助資金はほとんど集まっていません。
隣国へ逃れても、その国の政府にもそんなに資金的余裕はありません。
彼らに比べたら、きっとここにいるシリア難民は幸運で、恵まれた環境にいると言えるのでしょう。


では、なぜ。
なぜ中央アフリカや南スーダンの難民を差し置いてシリア難民が未だに世界の関心を集めるのか。
おそらく規模の問題もあるでしょう。
シリア難民は現在約250万人。中央アフリカ、南スーダンはそれぞれ20万人程度。
加えて、アラブの春から続く中東地域への世界の注目。
その他、きっと途方もなく大きな渦のような、政治的な理由も存在するのかもしれません。

援助の世界に身を置いていると、いろんな渦があちこちで蠢いているのが見えます。
営利企業にいた時も、政府機関にいた時も、市民社会にいる今も、
その渦の流れに抗うことはできなくて、渦ごと壊す力もなくて、
ただただいきどおって、たまに自分の軸を揺さぶられるような体験をします。

途方もない渦を前に、絶対的な正義など無いと知って、
それでもこの世界にとどまる。

たぶん筆者は、ただ美しいものを見たいだけなのです。

難民キャンプの小学校で子供に笑いかけると、はにかんだように笑顔を返してくれます。
たぶん片手で数えるほどしか知らない英語の言葉で、盛んにこちらに声をかけます。
授業中でも、校舎がわりのテントの窓をめくってはこちらに笑顔を投げかけます。
毎日WFPから配られる栄養補助ビスケットを筆者に渡して、頬にキスをしてくれます。

こんなに愛おしくて美しいものを目にして、背中を向けることなど誰もできないでしょう。
虚構の正義でも政治の渦でも、その中でいいように動かされているのでも、もうきっとどうだってよくて、
ただただ、私は彼らの中の綺麗な思い出になりたい。
今夜眠りについて明日には忘れるような、つかの間のものでもいいから、
できればいい人間として、できればいい日本人として、彼らの綺麗な思い出になりたい。


この世界を志したその日からずっと、私は生を希求する人が好きです。
与えられた環境で精いっぱい努力して楽しく生きる。
そういう姿勢に、日本にいては見つけがたい美しさが見えるのです。

そういう美しさをここで見られたという意味で、難民キャンプは私をもう一度原点に連れ戻してくれました。

まだしばらくこの地のとどまって、彼らのために仕事ができることを嬉しく思います。

  

プロフィール

SJ

Author:SJ
大阪生まれ、東京かぶれ、オーストラリア、ナイジェリア経由、2013年英国にてアフリカ研究修士号取得。
関心事項はアフリカ、開発、国際情勢、日本の政治・社会、メディア。
趣味は海外旅行と映画鑑賞、写真撮影。
世界で一番好きなものは猫(大小問わず)。

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