Loading…

スポンサーサイト

Posted by SJ on --.-- スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

若者が描く未来 -アフリカと日本の若者の対比-

Posted by SJ on 26.2015 日本政治   0 comments   0 trackback
アメリカのオバマ大統領が、今日7月26日の夕方まで東アフリカの大国ケニアを訪問していました。
ケニアはオバマ大統領の父親の出身地ということで、オバマ大統領の「帰郷」にあたってケニアは熱狂的な歓迎ムードに包まれていました。
わたしはケニアに身を置く人間として、大統領の発言やケニア市民の反応を興味深く見ていました。

ケニア国民に向けて今日スタジアムで行われた演説で、オバマ大統領は「ケニアは岐路に立っている」と言い、ケニアの発展のために必要であり、アメリカが協力していくべき分野として、腐敗を排した民主主義の確立、若者や女性への機会提供、部族や宗教対立を乗り越えた国民意識の醸成、の3点を挙げました。
(動画(英語、字幕なし):https://www.youtube.com/watch?v=cWW7KaRMDI0)

特に、若者の活躍がケニアの発展に欠かせない、だからアメリカはケニアの若者に投資する、という旨の発言には、会場のケニア市民から幾度となく送られた喝采の中でも最も大きな喝采が送られました。
今日の演説に先立ち、大統領は起業家の集うイベントで開会の式辞を述べ、若い起業家の活動を視察もしました。
そして今日、これからのケニアを、そしてアフリカを率いていくのは、若者だと、強い期待を口にしたのです。

大統領はこのように言いました。
「活力と、理想と、楽観主義に満ちた若者たちが、アフリカを次なる高みへ率いていくのだ。」
そしてケニア市民からの惜しみない拍手。


私は遠い日本を、日本の若者を思いました。

いま日本は安保法案で揺れている。
SEALDsという学生を中心とする団体が脚光を浴びている。
彼らは「戦争するな」「憲法守れ」「安倍政権No」と叫ぶ。
賛同する大人も多いようです。野党党首を含む国会議員や、元首相、その他学者や有名人も。
(メンバーの一人のスピーチ:http://iwj.co.jp/wj/open/archives/254835)

SEALDsは、ホームページやフェイスブックを見る限り、たしかに若者らしく活力と理想と楽観主義に満ちているように見えます。
連日デモを行う活力。ホームページに記載された、「リベラル」らしい理想。憲法9条があれば戦争の心配はないという楽観主義。

しかし、彼らの理想に革新性はなくむしろ保守的で、なにより彼らの楽観主義は、安倍政権が目指す(と彼らが認識している)未来への悲観の裏返しでしかない。

それから、先般朝日新聞に掲載された「日本は愛せない国になっていく」という投稿文。
22歳の大学院生が書いたものだということですが、SNSで拡散されていました。
投稿者は、日本は「愛することもはばかられる」と言います。
その背景には、日本が凋落しつつも激動する時代の中で成長し、「ゆとり世代」と揶揄されながらも国家への奉仕を求められる(と本人が感じている)ことへの不満があるように読めます。
そして、安保法案の成立によって、若い世代が戦争に参加されられるのではないかと恐れているように読めます。
(掲載先: https://instagram.com/p/5Vh0xEEj5N/)

この22歳の投稿者は、明らかに自分の置かれている状況に不満を募らせており、自分たち「ゆとり世代」は「捨て駒」として生まれたのか、と政府に不信感を持っています。
この主張も、同様に、彼女の目に映る「安倍政権が目指す未来」への悲観のストレートな表れでしかない。


わたしは、ケニアでオバマ大統領に喝采を送ったケニアの若者と、時を同じくして国会前でシュプレヒコールをあげる日本の若者を想像しました。
日本の若者の活力と理想と楽観主義とは、現状への不満や政府への不信や将来への悲観の上にしか生まれないのか?
若者らしい理想とは、保守的でなく革新的であるべきではないのか?
若者だけに許される楽観主義とは、新たな地平を開くための好奇心と向こう見ずな自信に満ちたものではないのか?


オバマ大統領は同じ演説の中で、ソマリアに拠点を置くテロ組織アル・シャバーブとの戦いについて述べました。
「アル・シャバーブとの戦いの中で犠牲となったケニア兵士に感謝している。アメリカとケニアはこれからも、テロとの戦いが終わるまで肩を並べて立ち続ける。」

前掲のリンクのスピーチの中で、SEALDsのメンバーはこう言いました。
「武力に頼る未来なら私はいりません。人殺しをしている平和を、私は平和と呼びません。」
「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生えない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の中で聞く幸せを、私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。」

この若者の言う「平和」とはなんと自己中心的で視野の狭いものなのでしょう。
シリア、イラク、イエメン、ナイジェリア、ソマリア、ケニア、ブルンジ、南スーダン、コンゴ民主共和国、、、
世界では今日も争いで人が命を奪われています。
ある国では子供が戦場に駆り出され、命を落としています。
ある国では少女が体に爆弾を巻き付けられ、遠隔操作で「自爆テロ」の実行犯にされます。

遠く海のかなたで無垢な命が残忍に奪われていくのをテレビで見ながら、安全な日本で安穏とした日常を過ごすのが「平和」なのでしょうか。
残酷な世界を遮断して他人ごとにして、日本人は戦争に行くことがなくてよかったと、本気でそう思えるのでしょうか。
見まごうことなき悪がいわれなき罪で命を奪っているなら、できる支援をするべきではないでしょうか。
できる範囲で支援をするのが、責任ある国際社会の一員としての務めではないのでしょうか。
それとも、日本人の命はテロと戦う世界各国の兵士や自分の村を守ろうとする自警団員の命よりも尊いのでしょうか。

朝日新聞への22歳の投稿者はこう言いました。
「権力者は、庶民の生活も、戦場の実情も知らないのではないか。」

そうかもしれません。ではあなたは戦場の何を知っているのですか?
どうも安保法案反対派は先の大戦で頭がいっぱいのように見えますが、現代の戦争は先の大戦とは随分と構造も性質も違うはずです。

ケニアのガリッサで大学が襲撃され148人が死亡した事件は日本でも大きく報道されたはずです。
日本で戦争反対を叫ぶ彼女らと同じ大学生が、イスラム教徒でないというだけの理由で無残に殺されたのです。
武力攻撃に武力でもってこたえることは、確かに暴力の連鎖を生みます。
だからと言って武力行使を放棄することが暴力の歯止めになるとは、テロ組織の蛮行を見る限りはどうも信じられません。

紛争学を学ぶと、「正当な戦争」という概念に出くわします。
戦争は場合によっては正当であり得る、という考え方が世界的に定着しているのです。
もちろん正当であるためには様々な要件を満たさなければなりません。戦争を正当化するとかいった単純な話ではまるでありません。
しかし、日本社会ではこういう複雑な思考を全て放棄して、「戦争は絶対的な悪」とする考え方が定着しているように思います。
言い換えれば、日本人の平和主義とは、戦争の全否定であり、戦争についての思考の放棄に他ならないのです。
一部の人は同じことを「思考停止」と呼びますが、わたしはあえて「思考放棄」と呼びたい。
なぜなら、これは停止などという中立的なものではなく、日本人自身が意識的に自ら放棄した自発的行為なのだから。

話をもとに戻しますと、ガリッサ大学を襲撃したアル・シャバーブのようなテロ組織と戦うことは、正当な戦争のはずです。
(具体的な「正当な戦争」の要件はインターネット上でも見られます。)
正当だからこそ、ケニアとエチオピアを中核とするアフリカ連合軍が一丸となって前線で対応し、アメリカもそれを支援しているのです。
戦争は悪だ。戦場は悲惨だ。
それは正当なはずの戦争までもひとくくりに否定する自己保存の口実で、国際社会の一員としての責任放棄ではないのでしょうか。


安保法制反対派の中には、「自衛隊の後方支援が危険でないと言うのなら、まず首相が戦場へ行ってそれを証明してください」といった主張をする人がいます。
この主張が妥当だと思うなら、わたしはこういう主張をする反対派の方々にこう言いたい。
すべての争いを武力でなく対話で解決できると言うのなら、あなたがテロリストと対話してください。

戦地に送られるのは嫌だ。友人や我が子が戦地に送られるのも嫌だ。
政府は対話という外交手段で国を脅威から守るべきだ。
戦後70年に及ぶ平和と繁栄、安全を享受できたのは、すべて憲法9条のおかげなのでしょうか?
国家への感謝や愛国心はかけらもないのでしょうか。全部政府におんぶにだっこで、国民には責任と言うものがないのでしょうか。
これは単に、最近の日本の若者は責任感がない、というありふれたエピソードのひとつなのでしょうか。

「武力に頼る未来ならいらない」なんて、国家が言えるはずがないのです。
国家は国民を、国土を、主権を、そして国益を守らなければなりません。
戦争は政治の一形態に過ぎません。
だから正当な戦争というものが存在するのです。正当な戦争とは極端な形態の政治手段に過ぎないのです。
正当な戦争を含む全ての戦争放棄というのは、政治の一手段の放棄ということになりますから、国家の責任放棄とも言えるのです。


わたしは日本に責任ある国家であってもらいたいと願います。
それは国民に対しても、国際社会の一員としてもです。

そして、集団的自衛権の行使は自衛権の解釈の拡大であって、自衛権を放棄していない(自衛隊を容認している)日本国憲法には抵触しようがないと考えます。
憲法でも法律でも、文章で定められた決まりごとについて解釈が分かれるのは当然です。
時代の要請に合わせて憲法解釈を変えていくことは許されないという主張は、特定の集団が信じる「原義」に固執するという点でイスラム原理主義に通じるもののようにも見えます。
柔軟性のない共同体に明るく長い未来があるとは私は思いません。


アフリカでは爆発的に増加する若年層が革新的な事業に取り組み、今後の経済成長と政治の成熟を確実に支えていくでしょう。
日本では減り続ける若年層が改革を拒み、緩やかな衰退を平和と誤認しながら、日本が経験したことのないあらゆる危機を迎えなくてはならないのでしょうか。
そのときアメリカの大統領は、「アメリカと日本はこれからも肩を並べて立ち続ける」と言ってくれるでしょうか。
思考放棄に他ならない「戦争反対」の精神で世界の公益の実現に貢献しない国を、対等なパートナーと呼んでくれるでしょうか。

日本の若者はこの国をどこへ率いていこうとしているのでしょうか。
革新や改革なくして、次の高みにたどり着くことができるとは私には思えないのです。
まずは、日本人が70年前に放棄した思考を現代の文脈の中で再開する必要があるのだと、私は強く思います。
スポンサーサイト


  • password
  • 管理者にだけ表示を許可する

trackbackURL:http://sjinnigeria.blog100.fc2.com/tb.php/39-18ee13cd

プロフィール

SJ

Author:SJ
大阪生まれ、東京かぶれ、オーストラリア、ナイジェリア経由、2013年英国にてアフリカ研究修士号取得。
関心事項はアフリカ、開発、国際情勢、日本の政治・社会、メディア。
趣味は海外旅行と映画鑑賞、写真撮影。
世界で一番好きなものは猫(大小問わず)。

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。