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ネット世論と日本の未来 -「国連の存在、意味があると思う?」-

Posted by SJ on 22.2016 日本社会   0 comments   0 trackback

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「国連の存在、意味があると思う?」

Yahooでこんな意識調査が行われていて、まず設問に驚いたけれど、(暫定の)投票結果にもっと驚いた。
投票者の実に3分の2が、国連の存在には意味がないと思っていること。
ついでに、投票者の圧倒的多数(約84%)が男性ということ。

まず、「国連の存在、意味があると思う?」という極端な設問は、国連の存在意義を疑問視している人間からしか出てこない(と思う)ので、設問自体が主観で歪んでいる。
国連の存在意義に疑問を持っている人でなければ、こんな根本的なところに焦点を当てず、「国連は求められる役割を果たしているか?」といった設問を用意するだろう。
大戦後何十年も存在し続け、今も世界中で活動している世界秩序維持のための機関を取り上げて「意味があると思う?」というのは、自然に湧いてくる疑問とは思えない。

実際、コメントを見てみると、「戦勝国がー」「拒否権がー」「紛争解決能力がー」といった内容が多いので、存在意義云々というより国連は機能不全だ、という意見が主流なのかと見える。
ただし、コメントがどの選択肢に投票した人のものは区別できない作りになっているので、投票内容(「意味がある」 又は 「意味がない」 又は 「わからない」)と回答者の意図のずれがどの程度かはわからない。
とは言っても、(「わからない」は除外するとして)こんな巨大国際機関の存在意義は、ある・ないの二元論で語べきものではないはず。
そもそも、存在意義とは、自動的に降ってくるものではなくて、履行される中で生み出されるものではないのか?
国連を意義深いものにするのは、ほかならぬ加盟国、つまり我々自身のはずではないか。


この手のネット投票は、多分そのトピックに関心のある人しか参加しないので、否定的な意味で強い関心を持っている、要はアンチ国連と言うべき人々が殺到して「意味がない」票が伸びているのだろうと思われる。
しかし、それにしても、反対に「肯定的な意味で強い関心を持っている人」が少ないのだとしたら、それは国際社会で(主に国連への拠出金という観点で)主要な地位を占める国の国民としては、かなり心もとない。

シリア内戦やら難民問題のニュースが出るたびに、国連の対応力を批判する意見が多いことには前々から気づいていた。
けれど、それが「国連改革を!」とか「日本の発言力の向上を!」とかいった建設的な方向に向かわず、その代わりに、本当に「国連の存在は意味がない」といった考えに収束してしまうのだとしたら、色々な意味で大きな不安を覚える。

意味がない、と切って捨てるのは容易い。
事実、国連の仕組みには問題もあるし、対応できない課題も多い。
しかし、それを理由に存在そのものを否定してしまうのは、どう考えても乱暴、というか短絡的ではないか。
切って捨てるその背景に、十分な知識と理解に基づいた深い思慮がないのなら、それは思考の放棄以外の何物でもない。

思考を放棄する者には改善もないし、革新もないし、向上もない。要するに、よりよい未来がない。

また、参加者の大半が男性であることにも一抹の不安を覚える。
国連というトピックに関心を持つ女性が少ないのであろうか。
国際協力の分野では男性よりも女性の活躍が目立つのだから、本来なら女性の参加が多くても不思議はない。
そういった女性はこういう場での意思表明に関心がないのであろうか。
いずれにせよ日本は圧倒的に男社会で、政治、経済、社会とあらゆる面で今も男性が覇権を握っている。もし国家の重要課題に対して女性が意見を持っていなかったり意見を述べたがらないのなら、それはそのまま、日本という国家の将来にも影響しうる。

私はこの意識調査が日本の縮図でないことを願ってならない。
日本には、建設的な思考に基づいてよりよい未来を切り開いていける人々が多くいるのだと、そして、女性は日本の未来にもっと積極的にかかわっていける強い存在なのだと、ただそう願ってならない。

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「絶歌」書評  生々しいほどに、人間

Posted by SJ on 02.2015 日本社会   0 comments   0 trackback
非難轟々の「絶歌」を読みました。

不当な批判を受けたくないので最初に断わっておきますが、私はお金を出してこの本を買ったわけではないので、印税が元少年Aに流れる云々といった類の批判はあたらないと思っています。

あと、ネットを見ていると、どこだかに転載されたあとがきだけ読んで批判している人がかなりいますが、それは全く持って理不尽です。
あとがきは、文字通り本文を読み終えた上で読むものであって、それ単体で何かの役割を全うするものではないでしょう。
私は汲むべきものは汲んだうえで真っ当な批評をしたいから、本文も全部入手して最初から最後まで読みました。
とりあえず一通り読んで数日経って、今頭に残っている印象を感想として書いておこうかと。
もう一度読み返せば、また新たな印象が生まれるのかもしれません。

さて、本題に入って、
この本を読んだ印象を一言で言うとすれば、「永遠の中二病」といったところ。

内容としては第一部が幼少期~逮捕の過程、第二部が逮捕後~社会復帰の過程で、第一部と第二部でかなり印象が違いました。

第一部は元少年Aの内面だけを照らし出したような感じで、グロテスクな描写もあれば過剰なほど感情的なくだりもあります。
行為というより本人の感情をひたすら辿ったような内容になっていて、例えば人を殺めた場面そのものは全く描写されていません。
それが本人の意向なのか出版社の配慮なのかはわかりませんが。
対して第二部は、人とのかかわり合いの中で元少年Aがどう感じたとかどう考えたとか、そういう描写が多いです。
第一部に比べてどちらかというと単調で穏やかですが、たまに挿入される幼少期の回想(理由もなく弟を殴り続けた等、読み手が戦慄するような内容が過去の客観的な出来事として単調に語られる)との対比が非常に印象的でした。

そうした印象の違いを乗り越えて一貫して感じたのが、元少年Aの自意識の強さ。
自分はこのように感じた、こんな行為をした、それにはきっと過去のこういう体験が関連しているのかもしれない、
といったように、過去のあらゆる行為や思考に思いを巡らせ、点と点とのつながりを模索し、自分の人となりや思考様式を見定めようとしているようでした。
また、逮捕後に色々な小説を読んだというだけあって文体はかなり文学的、具体的に言えば感覚的な比喩表現が多用されています。そうした全体的に遠回しな文章の中で、時折、堰を切ったように畳みかける感情の吐露。
そうした表現が、「僕はこんなにも感受性豊かな人間です。僕はこんなにも感情の起伏に富んでいるのです。」と読み手に訴えようとしているように見えました。
一方で、自分はモンスターだとか、こんな邪悪な自分が許され受け入れられるのが怖いとか、自己を強く否定するような記述も繰り返し出てきます。

とにかく、一貫して彼は自分を見つめていて、自分がこんなにも生々しく「人間」であるということを読み手に示したいのだという印象を持ちました。
年齢的には30代で、何年も社会で働きながら、このようにただひたすらに自己を掘り下げている点と、それを人に見てほしがっているらしい点と、あとは手の込んだ比喩表現や難しい言葉を多用するあたりを、「永遠の中二病」と表現しました。
彼は14歳、まさしく中二病の盛りから、7年半も通常の社会経験を積む機会を失ったのですから、当然と言えば当然なのだと思います。

そして多分彼はそれを自覚しています。「人間失格」に言及した時、現代の若者らしい滑稽な表現で、自分が自意識過剰であることを皮肉っているようでした。
この時の表現を含めて、ところどころに出てくる現代的な言葉から察するに、おそらく彼はかなりインターネットを見ているのではないかと思います。
そして、このように現代的で平易な、いわゆる俗語と言われるような表現が時折紛れ込んでいることから、この本を貫く文学的な文体は、かなり意識的に練り上げたものなのかなと思いました。
他方、既にふれたように、随所で彼は文字通り畳みかけるような感情の吐露を始めます。ある強い感情がはっきりと彼の中になければたぶんああいった表現にはならないだろうと思うような、その感情を表すための言葉をあるだけ並べ立てるような、非常に感情的な文章が連なります。
感覚的でありながら工夫を凝らして練り上げたような文体と、その中に織り込まれたほとばしるような感情的な文章。
ネットでナルシスト的だとか虚飾だとかいったように批判される理由はおそらくこうした表現にあるのだと思いますが、私にはこうした表現はどれも彼の「生身の人間」アピールであるように見えました。



元少年Aが事件を起こし逮捕されたとき、私はまだ小学生でした。
だから、「酒鬼薔薇聖斗」という印象的な名前と、生首、猫殺し、14歳、といったキーワード以外は基本的に記憶になく、当然当時の報道内容も、その後の流れもほとんど知りませんでした。
このように背景知識がほとんどなかったおかげで、この本はあまり先入観なく読めたつもりです。

本を読み進めながら、インターネット広辞苑で事件のいきさつや後日談を読んだ時に、大きな違和感を感じました。
ネットで見られる情報だけを読むと、事件当時の少年Aはまさしくサイコパス。他者への共感が著しく乏しい。
ネットの情報に基づいて描き出される少年Aは、「絶歌」で時折回想される幼少期の描写と通じるものでした。
理由もなく暴力を振るい、自制がきかず、罪の意識も皆無。
そして、そうした過去の振る舞いに対しては今も反省の念はない。

反省がないらしいという点が、この本に対して批判が渦巻く大きな原因の一つなのは明らかです。
そもそもこの本の出版自体が自己中心的な理由によるもので、反省の念があればできるはずがない、と。

犯罪者を擁護するつもりは毛頭ありません。
でも想像してみれば、元少年Aが純粋に本心から自己救済のためにこの本を書くしかなかったのかもしれないと思えるのです。

彼は社会復帰してから毎年被害者の親御さんに手紙を書いています。
その手紙の内容に、良い変化が出ているということは被害者の親御さんも仰っているようです。
でも世間的には事件はもうずいぶん過去のもので、「酒鬼薔薇聖斗」というサイコパスの性倒錯者が起こした猟奇的な凶悪犯罪として片づけられていて、多くの人は今更この事件に関心を抱くこともなく暮らしています。

「絶歌」は、元少年Aが、サイコパスの性倒錯者「酒鬼薔薇聖斗」も生身の人間であることを痛切に訴えかけようとした試みに見えます。
罪を許されたいのではない。全てを受け入れて欲しいのでもない。
邪悪な人間として断罪されたい。憎まれたい。自分の犯した罪の重さを感じ続けたい。
それでも、自分も生々しいほどに感情の起伏に富んだ一人の人間であるということを知ってほしい。
そのような訴えのように見えたのです。

この本には、もちろん眉をひそめるような記述もあるし、思わず口を覆う場面もありました。
元少年Aが重罪人であることはたとえ本人が死んでも変わらないし、今後何をどう努力しても赦しなど得られないでしょう。
でも、彼も生身の人間であって、色々な苦悩も当然あるし、メディアやネットの情報で作り上げられてしまった彼のイメージは、もうどうにも壊せなくて、彼はそれによって苦しんでいるのだろうと思うのです。

「絶歌」から二文だけ引用します。
”僕にとって「書く」ことは、自分で自分の存在を確認し、自らの生を取り戻す作業だった”。
”自分が自分でいられる安息の地は、自分の中にしかなかった”。

彼は常に作り上げられたイメージを背負わされて生きているのでしょう。
「酒鬼薔薇聖斗」、「モンスター」、「少年法改正議論の火付け役となった凶悪犯罪者」。
そしてたぶん、特定の人々にとっては「国家の威信をかけた更生プログラムの被験者」。
現在の彼を規定するのは過去の行いでしかない。彼自身の意識も、自分の過去から逃れられない。

でも現実に彼は様々な苦悩を感じていて、それを更生と呼ぶかはわからないけれど、事件当時と比べると考え方に変化もある。
元少年Aも一人の人間で、人間らしい苦悩を背負って生きている。
こんな当たり前のことを純粋に認めてくれる人がいないということが、”自分が自分でいられる安息の地は、自分の中にしかなかった”という言葉の意味なのではないでしょうか。



元少年A。あなたの本当の名前は知らない。
私はあなたが心を砕いて綴った本を読みました。
そしてこう思いました。
あなたは、生々しいほどに、人間なのだと。
どうかその人間らしい心で、これからも耐え難い罪の重さを感じ、その罪のせいで自らに向かうあらゆる刃に切り裂かれ、深い後悔と自責の念に打ちひしがれてください。自分を呪ってください。
そして、それでも、人間でいられることに感謝し、人間らしくあることを諦めないでください。

そしていつも思い出してください。
この世界には、あなたを憎みながらも、きっとあなたのことを正しく理解してくれる人間がいるのだと。
この世界は、残酷で、そして残酷なくらいに、美しいのだから。

現代のカミカゼ精神 日本人の理想主義と自己愛

Posted by SJ on 22.2015 日本社会   2 comments   0 trackback
前回の記事(「拝啓 林真理子様」)を書くきっかけとなった、川崎中一殺害事件。
関連の報道を見ていて強く感じたのが、おそらく日本人特有の、高い理想主義。私はこれを現代のカミカゼ精神と呼びたいと思う。

林真理子氏の主張に代表される「被害少年の母親が子供にちゃんとかまっていなかったのが悪い」という見方は、少なくとも一部で強い支持を得ているらしい。
私が前回の記事で主張したのは、被害少年の母親は人間なのだから、母親としての役割を果たすためには母親本人の精神の安定が必須であるのに、被害者の母親を批判する人はこの視点を根本的に欠いている、ということ。
言い換えれば、批判者たちは「母親」という果たされるべき役割だけに着目していて、この母親が人間であるということを無視している、ということ。

戦争の歴史について特別学んだわけではないけれど、「永遠の0」で書かれているように、大日本帝国軍が誇った零戦というかの有名な戦闘機は、飛行距離等の性能は抜群に優れていたけれど、そこに乗る人間の体力、さらには生命を軽視した戦闘機であったという。
これはつまり、「戦闘機」という役割だけに着目して特定の性能を向上させる傍ら、「戦闘機乗り」は体力に限界があって生命が一つしかない生身の人間であることを無視していた、ということではなかろうか。

極端な飛躍に見えるかもしれないが、私には、「母親」としての役割だけを強調して被害少年の母親自身に人間性(精神的および肉体的限界)を認めないことは、「戦闘機」の中にいる戦闘機乗りの人間性を軽視したのと全く同じ精神に見えた。

この精神は、つまり、人間は「役割」を果たすことが絶対で、人間であるがゆえの当然の限界はそれを果たせないことの言い訳にはならないというもの。

考えてみれば、日本社会にはこういう人間性を軽視した「役割」主義が蔓延しているではないか。
有給休暇の消化率が低いことは、すなわち、休んで気持ちを切り替えたりストレス発散する必要性を認めないという風潮の強さを表す。極端にいうと、社員は会社のために働くものであって、心身の健康など問題でない、ということ。
根強い性別役割分担や男女間の貞操観念の違いも、「女性はこうあるべき」という役割主義の一形態と取れる。個人の考え方や趣味嗜好といった人間性には当然敬意が払われない。

「母親の役目」とか「社員の務め」とか「女性らしさ」とか、こうした「役割」というのはいったい何なのか?
それは社会的に作り上げられた理想に過ぎない。
公的秩序の維持や社会の発展のためによしとされる理想的な振る舞いを「果たすべき役割」と規定し社会の構成員に刷り込む。それが我々現代日本人の精神に刻み込まれる。
刷り込みは無意識のうちに広く浸透するゆえに、俗に「国民性」などと呼ばれる日本人共通の精神となる。

そして、多くの現代日本人がこういう理想主義に拘泥する背景には自己愛があると思う。

昨今、海外特に「世界の秘境」とやらで奮闘する日本人を涙ぐましく追ったテレビ番組が目に付く。
日本を誇りたいという願望を揶揄した「愛国ポルノ」といった造語も見られる。
同じような傾向のものとして、大東亜戦争を猛省する姿勢は「日本が過ちさえ犯さなければ」という一種のヒロイズムに裏打ちされているという興味深い議論を目にしたことがある。自身をヒーローに見立てたヒロイズムは自己愛の一形態であろう。

このように、日本社会には、「日本は素晴らしい国で、日本人は素晴らしい民族であるはず」という自己愛が昔も今も脈々と息づいているのではないか。
左翼と呼ばれる人は思考の根底にある種のヒロイズムを抱え込んでいるだろう。
右翼と呼ばれる人は日本人としての自己愛がもっと前面に出て、他者の言い分と衝突するのだろう。

自己愛の強さゆえ理想を重んじ、理想の追求のために人間性を犠牲にする精神。
それが私の言う現代のカミカゼ精神。
(カミカゼという言葉を使うのは、あくまで零戦の非人間性を引き合いに出したいからで、特攻隊として散った人々の精神を云々するものではない。)

そしてこれは賛美されるべきものでは決してない。

人間は脆いし、弱いし、あっけなく死ぬ。
働きづめで精神を病む人もいるし、過労死する人もいるし、思いつめて自殺する人もいる。
人間性を無視した社会など、息が詰まるだけ。
海外に逃げたがる日本人は実際にいる。お金に余裕のある家庭では子供をインターナショナルスクールに入れ、留学させる。
日本社会は他ならぬ日本人に見放されつつあるのだ。
だから愛国心に訴えて必死につなぎとめるのだ。その触媒が愛国ポルノだ。

我々は人間を再発見しなければならないのではないだろうか?
理想や役割にからめとられるのではなく、我々は皆、脆くて弱い人間であると認め、おなじ人間として理解し合い支え合わなければいけないのではないだろうか。

そうでなければこの世はあまりにも冷酷だ。
川崎で殺害された少年の母親を糾弾する人々は、きっと自身も人間性を失ってしまったのだろう。
そうでなければ、わが子を亡くした生身の人間を非難することなどできるはずがない。

拝啓 林真理子様、 気の毒なお母さんの子供より

Posted by SJ on 17.2015 日本社会   0 comments   0 trackback
週刊文春3月19日号の夜ふけのなわとび「お母さん、お願い」を拝読し、どうしても申し上げたいことがあります。

林真理子様、
あなたはこの記事の中で、川崎の中一殺害事件について
「(被害少年の)お母さんがもっとしっかりしていたら、みすみす少年は死ぬことはなかったはず」と仰いました。
「ふだんから子どものことはかまってやらず、うちの中はぐちゃぐちゃ。そして恋人がいたという。典型的な『子どもの貧困』問題だ」と被害少年の母親を糾弾されました。

「テレビのバラエティを見ていると、離婚した女優さんやタレントさんが、そのことをネタにして面白おかしく話している。離婚してとても自由に、幸せになったように語る。あれではふつうの人たちが誤解しても仕方ない」と、
芸能人が離婚をポジティブに語ることが、稼ぎの多くない「ふつうの」女性に、離婚に対して間違った印象を与えていると指摘した上で、
「世の中にはびこる、『母であるよりも女でいたい』などという考えも、二の次に置いてほしい」と、
離婚した「ふつうの」女性に呼びかけられました。
さらに踏み込んで、
「もし離婚をしたとしたら、子供が中学を卒業するぐらいまでは、女であることはどこかに置いといて欲しい。...
そしてセックスとかそういうことで、現実逃避しないで欲しい。お願いしますよ。」と、
離婚した「ふつうの」女性にお願いされました。

そしてあなたは空しくなったと仰いました。
なぜなら「こういうことをするお母さんが、この『週刊文春』を読んでいるとは到底思えない」、「雑誌を読む習慣を持つ人というのは、恵まれた層の人たちだ」と。

そして、行政や近所の女性に対する呼びかけとして、このように記事を結ばれました。
「どうか気の毒なお母さんたちに手を貸してあげてほしい」、と。


林真理子様、
もしあなたの言う「気の毒なお母さん」が、稼ぎの多くないシングルマザーを指すのなら、私はある「気の毒なお母さん」に育てられた人間です。

離婚後、母は朝から晩まで働きづめで、あなたの仰るように、私や私のきょうだいに満足にかまうこともできず、家の中はぐちゃぐちゃでした。
直接聞いたわけではないし会ったこともないけれど、母には恋人がいた時期もあったようです。
恋人の存在を知った当時の私は、確かに快くは思いませんでした。母親を奪われたような気分だったのだと思います。
頼れる人がこの世に一人もいなくなったような気がして泣いたことは今もよく覚えています。

でも、両親の離婚から15年以上の時が流れた今、私は同じようには思いません。
シングルマザーは「親」である前に、そして「女」である前に、一人の血の通った人間です。
感情の起伏に富み、他人の言葉に一喜一憂し、時に人に甘えずにはいられない、他の全ての人間と同じ、ただの一人の人間です。

あなたは、離婚した女性には子どもが大きくなるまでは「女」であることを二の次にしてほしいと言いました。
川崎の被害少年の母親に恋人がいたということを念頭に置かれてのご意見と推察します。

私はひとつ大きな疑問を持っています。
恋人を作ることは「女であること」を優先しているということなのですか?
恋人とはセックスをして現実逃避するための存在なのですか?
私はそのようには思いません。

離婚後、母には精神面で頼れる人がいませんでした。甘えられる相手、心の支えとなる人がいませんでした。
私は、母はそれを恋人に求めたのだと思っています。
女であるためではなく、母親として懸命に身を粉にして働く自分を、一時休める心の拠り所として。
現実から逃れるためでなく、現実に向き合い続けるための支えとして。
そしてこういう甘えは、決して「女でいたい」という願望とひとくくりにされるものではありません。
男女を問わず普遍的に持っている安らぎの希求。実に人間的で根源的でありながら、性的欲求とはかけ離れた欲求であると私は思います。

母は女であるためや現実逃避のためなどではなく、精神的支えとして恋人を必要としました。
そして精神の支えを得たことで、私たち子どもにも優しく母親らしくいられたのだと思っています。
当時の私が恋人に代わるような役割を果たすことはどうやってもできなかったのですから、母親がそういう相手を見つけられたことは、母親にとってのみならず、私たち子どもにとっても幸運なことであったのだと思います。


しかし、このように書きながら、私は次第に空しくなってきました。

私は「気の毒なお母さん」に育てられた人間ですから、「恵まれた層」の人間ではないのでしょう。
だから、残念ながら、あなた方「恵まれた層」の人々が、果たして上に書いたような私の思う普遍的人間的欲求を持っているのかは確かめようがありません。
どうもあなたの文章を読む限りでは、「恵まれた層」の人々にとっての恋人というものは、自分が女であるためにセックスをする相手のことを言うのでしょうか。私には想像もできないことです。
もしかして本当に、「恵まれた層」と「恵まれない層」の間には、その精神構造や思考様式に、理解も想像も及ばない大きな隔たりが存在するのでしょうか。
そうだとしたら、ここでとうとうと恵まれない層の身の上話をしたところで、恵まれた層の人々には何一つ響くものはないのでしょう。


でも、少なくともひとつ役に立つことをお教えできると思います。

「恵まれない層」の私に、もし誰かが、「気の毒」だから手を貸してあげようという考えで手を差し伸べるのなら、
私はその手を振り払いたい。
誰かから見て私が「恵まれない層」であったとしても、私には誇りがあり、自分の人生を精一杯自分の力と自分のやり方で生きているのです。
そこに突然誰かがやって来て、私を「気の毒」だと言ったとしたら、それが私にとってどれだけ屈辱的なことか、あなたには想像できませんか?

「恵まれない層」の思考様式はこういうわけですから、あなたの「どうか気の毒なお母さんたちに手を貸してあげてほしい」という呼びかけは、撤回された方がよいと思います。
それは弱者に対する憐憫の情の押し付けでしかなく、あなたの言う「気の毒なお母さん」たちは、そんなものを望んではいません。

川崎の事件では、仕事に忙しくて十分に子供に注意を払えないお母さんに代わって、近所のお母さんが被害少年の行動に気を付けていれば、今回のような最悪の事態は防げたのかもしれません。
でも、地域ぐるみで子どもを見守り、育てるといった動きは、ある家庭が「気の毒」だからという理由から生まれてくるものではありません。
そこに介在するのは信頼と思いやり、連帯感です。
そして、本当にこの世に「恵まれた層」と「恵まれない層」が存在し、その間に隔たりや落差があるのなら、そこに信頼や思いやりや連帯感といった類の意識が芽生えるのは、きっととても難しいことなのではないかと私は思います。

だから、私は、そんな階層は「自分は恵まれている」と思いたい一部の人々の幻想にすぎず、世界はもっと平らで可能性に満ちていると信じたいと思います。

敬具
  

プロフィール

SJ

Author:SJ
大阪生まれ、東京かぶれ、オーストラリア、ナイジェリア経由、2013年英国にてアフリカ研究修士号取得。
関心事項はアフリカ、開発、国際情勢、日本の政治・社会、メディア。
趣味は海外旅行と映画鑑賞、写真撮影。
世界で一番好きなものは猫(大小問わず)。

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