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戦後70年談話 謝罪を超えて未来へ

Posted by SJ on 15.2015 日本政治   0 comments   0 trackback
平成27年8月14日、終戦70年に合わせて安倍首相が内閣総理大臣談話を発表しました。
(談話全文 http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html)

国内外で様々な批評が行われていますが、最近の国際情勢や国内の政治の動きに照らして、自分なりの解釈を書き留めておこうと思います。

談話はまず世界的な植民地主義の時代の回想から始まります。
そしてそれが日本に与えた、正と負双方の影響。
日露戦争、第一次大戦を経ての、民族自決原理の萌芽と戦争回避のための国際社会の形成。
そして経済危機と、日本の国際社会からの孤立。
日本が第二次世界大戦へと突き進んでいった過程を、当時の国際情勢の文脈の中で振り返ります。

それから、このようにして戦争に至り甚大な被害を出したことへの痛惜と、戦没者、戦争被害者への哀悼。
このような過去の上にある現在の日本の平和への決意。
歴代内閣の「反省とお詫び」の継承の確約と、アジア諸国の平和への貢献。
日本を国際社会に復帰させてくれた諸外国の寛容さへの謝意。
謝罪の宿命を次世代に負わせない決意。
戦後日本人の努力と国際社会の寛容さを語り継ぎ、世界の平和と発展に尽くす決意。
法の支配、女性の人権、自由で公正で開かれた国際経済システム、貧困撲滅といった価値の尊重。
こうした国際貢献を支える「積極的平和主義」。
日本国民との結束の呼びかけ。

一節一節語りかけるように練られた談話は、大まかに振り返るとこのような構成になっています。


批判的な意見で代表的なものは、
「安倍首相は自分のことばとして反省やお詫びを述べなかった」というもの。

談話から該当部分を引用すると、
「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。」
と、「お詫び」や「反省」は歴代内閣の表明した立場の引用としてのみ言及されています。

しかし、ここで見落としてはならないのは、反省とお詫びへの言及と、その立場の継承の確約にはさまれた「その思いを実際の行動で示すため...力を尽くしてきました」の部分だと思います。
つまり、この談話は、歴代内閣が述べた反省とお詫びの気持ちを、日本は東南アジア、極東アジアの国々への平和と繁栄への尽力という行動で示してきたと主張しているのです。
隣国が謝罪やそれを示す行動を要求し続ける中で、お詫びの気持ちも、それを示す行動も、日本はずっと示してきたと主張しているのです。

そして、この立場が、少し後に続く
「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
という言葉にも繋がっているのだと思います。

日本は70年間ずっと反省してきたし、お詫びの気持ちを行動で示してきた。
今後も日本は歴史を正しく語り継ぎ、世界への貢献を続ける。
そうした中で、戦争を知らない世代にいつまでも謝罪を続けさせるわけにはいかない。
そのような意思の表れがこの文章なのだと思います。

また、談話は、戦後日本が国際社会に復帰できた背景に、諸外国の寛容さが欠かせなかったことを強調しています。
具体例を複数挙げ、戦争被害者や元戦争捕虜への感謝を繰り返し述べます。

一部を引用すると、
「戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。」
このように述べています。

個人的に、この談話が前向き、つまり未来志向だと感じたのは、これからの国際貢献の方針に触れた部分ではなく、まさにこの部分があったためでした。
日本が犯した過ちについて、反省やお詫びを表明するのは難しいことではありません。
誤った行動をとったこと、多大な犠牲を生んだことは誰の目にも明らかだからです。
しかし、その後、日本が無事に国際社会に迎え入れられたことを振り返り、その陰にある戦争被害者や戦火を交えた各国の寛容さに謝意を示すということは、真正な反省の念がなくてはできないことだと思います。
私はこの感謝の表明の底に、中国や韓国が年々声高に要求する「謝罪」を超えた、痛切な反省を読み取りました。

予期されていたことですが、この談話に対して、韓国市民から「偽物の謝罪は必要ない」などと反発が出ています。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150815-00000068-jijp-int.view-000)
同国の朴槿恵大統領は、「残念な部分が少なくない」と不満を述べ、謝罪と反省の意志を具体的な行動で示すよう求め、特に慰安婦問題について「速やかに適切に解決することを望む」と従来の言説を繰り返しました。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150815-00000035-asahi-int)

残念ながら、韓国政府や一部の韓国国民は、彼らの思い描く形での謝罪や贖罪行為が提示されない限り、同じように不満を叫び続けるのだろうと感じます。
彼らは和解を望んでいるように見えません。ただ侵略の被害者として、償いを受ける権利を主張したいだけに見えます。

この談話が偽物の謝罪だというのなら、本物の謝罪とは何なのでしょうか。
戦争に直接加担したのではない現代の日本の首相に、「本物の」謝罪などできるのでしょうか。
既に終戦から70年の時が流れ、今の日本に生きる我々は、語り継がれた戦争の記憶に基づいてその惨禍を想像し、その想像に対して涙を流し、反省することしかできません。
70年前の戦争に対する謝罪を求めるには、あまりにも長い時間が流れてしまったのだと思います。

だからこそ、我々は謝罪を超えて未来へと歩むべきなのだと思います。
色々な国や国内各派への政治的な配慮も当然あったでしょう。
しかし、この談話で示された反省、お詫び、そして国際社会の寛容さへの感謝は、日本が国家として真摯に歴史と向き合ってきたことを明確に示すものであったし、談話の後半では、そうした戦後の歩みに基づいて、これからも、変わりゆく国際情勢の中で普遍的価値に基づいて国際貢献を行っていくという決意が強く表明されました。
総じて、この談話は日本国の深い自省とより良い未来への積極的な姿勢を示す素晴らしい内容であったと思います。

さらに、結びの部分では、
「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。」
とし、自由、民主主義、人権といった価値を現代の国際秩序の基礎と暗に示しています。

この部分では、南シナ海等で秩序を乱しつつある共産主義国家中国への牽制も当然意識されているのでしょうが、今年に入ってから日本外務省が韓国に関する記述から「自由と民主主義、市場経済等の基本的価値を共有する」という文言を削除したこと(関連記事 http://www.sankei.com/politics/news/150304/plt1503040025-n1.html)も念頭に置くと、韓国への牽制も垣間見えてきます。

談話をめぐる国内外からの批判は続くでしょう。
長いわりに内容が薄いという日本国民からの批判も多いようですが、戦争への深い反省と、戦後日本の歩み、特に国際社会の寛容さとそれを背景とする日本のアジア諸国ないし世界的な平和と繁栄への貢献と、そしてこの先の日本の方向性、すなわち積極的平和主義と、中韓を睨んだ政治的戦略を明確に示したという意味で、内閣総理大臣談話として大きな意義のあるものであったと思います。


末筆になりましたが、平成27年8月15日、終戦から70年を迎えたこの日に、筆者も一人の日本国民として、遠い空の下から全ての戦没者に深い哀悼を捧げます。
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若者が描く未来 -アフリカと日本の若者の対比-

Posted by SJ on 26.2015 日本政治   0 comments   0 trackback
アメリカのオバマ大統領が、今日7月26日の夕方まで東アフリカの大国ケニアを訪問していました。
ケニアはオバマ大統領の父親の出身地ということで、オバマ大統領の「帰郷」にあたってケニアは熱狂的な歓迎ムードに包まれていました。
わたしはケニアに身を置く人間として、大統領の発言やケニア市民の反応を興味深く見ていました。

ケニア国民に向けて今日スタジアムで行われた演説で、オバマ大統領は「ケニアは岐路に立っている」と言い、ケニアの発展のために必要であり、アメリカが協力していくべき分野として、腐敗を排した民主主義の確立、若者や女性への機会提供、部族や宗教対立を乗り越えた国民意識の醸成、の3点を挙げました。
(動画(英語、字幕なし):https://www.youtube.com/watch?v=cWW7KaRMDI0)

特に、若者の活躍がケニアの発展に欠かせない、だからアメリカはケニアの若者に投資する、という旨の発言には、会場のケニア市民から幾度となく送られた喝采の中でも最も大きな喝采が送られました。
今日の演説に先立ち、大統領は起業家の集うイベントで開会の式辞を述べ、若い起業家の活動を視察もしました。
そして今日、これからのケニアを、そしてアフリカを率いていくのは、若者だと、強い期待を口にしたのです。

大統領はこのように言いました。
「活力と、理想と、楽観主義に満ちた若者たちが、アフリカを次なる高みへ率いていくのだ。」
そしてケニア市民からの惜しみない拍手。


私は遠い日本を、日本の若者を思いました。

いま日本は安保法案で揺れている。
SEALDsという学生を中心とする団体が脚光を浴びている。
彼らは「戦争するな」「憲法守れ」「安倍政権No」と叫ぶ。
賛同する大人も多いようです。野党党首を含む国会議員や、元首相、その他学者や有名人も。
(メンバーの一人のスピーチ:http://iwj.co.jp/wj/open/archives/254835)

SEALDsは、ホームページやフェイスブックを見る限り、たしかに若者らしく活力と理想と楽観主義に満ちているように見えます。
連日デモを行う活力。ホームページに記載された、「リベラル」らしい理想。憲法9条があれば戦争の心配はないという楽観主義。

しかし、彼らの理想に革新性はなくむしろ保守的で、なにより彼らの楽観主義は、安倍政権が目指す(と彼らが認識している)未来への悲観の裏返しでしかない。

それから、先般朝日新聞に掲載された「日本は愛せない国になっていく」という投稿文。
22歳の大学院生が書いたものだということですが、SNSで拡散されていました。
投稿者は、日本は「愛することもはばかられる」と言います。
その背景には、日本が凋落しつつも激動する時代の中で成長し、「ゆとり世代」と揶揄されながらも国家への奉仕を求められる(と本人が感じている)ことへの不満があるように読めます。
そして、安保法案の成立によって、若い世代が戦争に参加されられるのではないかと恐れているように読めます。
(掲載先: https://instagram.com/p/5Vh0xEEj5N/)

この22歳の投稿者は、明らかに自分の置かれている状況に不満を募らせており、自分たち「ゆとり世代」は「捨て駒」として生まれたのか、と政府に不信感を持っています。
この主張も、同様に、彼女の目に映る「安倍政権が目指す未来」への悲観のストレートな表れでしかない。


わたしは、ケニアでオバマ大統領に喝采を送ったケニアの若者と、時を同じくして国会前でシュプレヒコールをあげる日本の若者を想像しました。
日本の若者の活力と理想と楽観主義とは、現状への不満や政府への不信や将来への悲観の上にしか生まれないのか?
若者らしい理想とは、保守的でなく革新的であるべきではないのか?
若者だけに許される楽観主義とは、新たな地平を開くための好奇心と向こう見ずな自信に満ちたものではないのか?


オバマ大統領は同じ演説の中で、ソマリアに拠点を置くテロ組織アル・シャバーブとの戦いについて述べました。
「アル・シャバーブとの戦いの中で犠牲となったケニア兵士に感謝している。アメリカとケニアはこれからも、テロとの戦いが終わるまで肩を並べて立ち続ける。」

前掲のリンクのスピーチの中で、SEALDsのメンバーはこう言いました。
「武力に頼る未来なら私はいりません。人殺しをしている平和を、私は平和と呼びません。」
「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生えない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の中で聞く幸せを、私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。」

この若者の言う「平和」とはなんと自己中心的で視野の狭いものなのでしょう。
シリア、イラク、イエメン、ナイジェリア、ソマリア、ケニア、ブルンジ、南スーダン、コンゴ民主共和国、、、
世界では今日も争いで人が命を奪われています。
ある国では子供が戦場に駆り出され、命を落としています。
ある国では少女が体に爆弾を巻き付けられ、遠隔操作で「自爆テロ」の実行犯にされます。

遠く海のかなたで無垢な命が残忍に奪われていくのをテレビで見ながら、安全な日本で安穏とした日常を過ごすのが「平和」なのでしょうか。
残酷な世界を遮断して他人ごとにして、日本人は戦争に行くことがなくてよかったと、本気でそう思えるのでしょうか。
見まごうことなき悪がいわれなき罪で命を奪っているなら、できる支援をするべきではないでしょうか。
できる範囲で支援をするのが、責任ある国際社会の一員としての務めではないのでしょうか。
それとも、日本人の命はテロと戦う世界各国の兵士や自分の村を守ろうとする自警団員の命よりも尊いのでしょうか。

朝日新聞への22歳の投稿者はこう言いました。
「権力者は、庶民の生活も、戦場の実情も知らないのではないか。」

そうかもしれません。ではあなたは戦場の何を知っているのですか?
どうも安保法案反対派は先の大戦で頭がいっぱいのように見えますが、現代の戦争は先の大戦とは随分と構造も性質も違うはずです。

ケニアのガリッサで大学が襲撃され148人が死亡した事件は日本でも大きく報道されたはずです。
日本で戦争反対を叫ぶ彼女らと同じ大学生が、イスラム教徒でないというだけの理由で無残に殺されたのです。
武力攻撃に武力でもってこたえることは、確かに暴力の連鎖を生みます。
だからと言って武力行使を放棄することが暴力の歯止めになるとは、テロ組織の蛮行を見る限りはどうも信じられません。

紛争学を学ぶと、「正当な戦争」という概念に出くわします。
戦争は場合によっては正当であり得る、という考え方が世界的に定着しているのです。
もちろん正当であるためには様々な要件を満たさなければなりません。戦争を正当化するとかいった単純な話ではまるでありません。
しかし、日本社会ではこういう複雑な思考を全て放棄して、「戦争は絶対的な悪」とする考え方が定着しているように思います。
言い換えれば、日本人の平和主義とは、戦争の全否定であり、戦争についての思考の放棄に他ならないのです。
一部の人は同じことを「思考停止」と呼びますが、わたしはあえて「思考放棄」と呼びたい。
なぜなら、これは停止などという中立的なものではなく、日本人自身が意識的に自ら放棄した自発的行為なのだから。

話をもとに戻しますと、ガリッサ大学を襲撃したアル・シャバーブのようなテロ組織と戦うことは、正当な戦争のはずです。
(具体的な「正当な戦争」の要件はインターネット上でも見られます。)
正当だからこそ、ケニアとエチオピアを中核とするアフリカ連合軍が一丸となって前線で対応し、アメリカもそれを支援しているのです。
戦争は悪だ。戦場は悲惨だ。
それは正当なはずの戦争までもひとくくりに否定する自己保存の口実で、国際社会の一員としての責任放棄ではないのでしょうか。


安保法制反対派の中には、「自衛隊の後方支援が危険でないと言うのなら、まず首相が戦場へ行ってそれを証明してください」といった主張をする人がいます。
この主張が妥当だと思うなら、わたしはこういう主張をする反対派の方々にこう言いたい。
すべての争いを武力でなく対話で解決できると言うのなら、あなたがテロリストと対話してください。

戦地に送られるのは嫌だ。友人や我が子が戦地に送られるのも嫌だ。
政府は対話という外交手段で国を脅威から守るべきだ。
戦後70年に及ぶ平和と繁栄、安全を享受できたのは、すべて憲法9条のおかげなのでしょうか?
国家への感謝や愛国心はかけらもないのでしょうか。全部政府におんぶにだっこで、国民には責任と言うものがないのでしょうか。
これは単に、最近の日本の若者は責任感がない、というありふれたエピソードのひとつなのでしょうか。

「武力に頼る未来ならいらない」なんて、国家が言えるはずがないのです。
国家は国民を、国土を、主権を、そして国益を守らなければなりません。
戦争は政治の一形態に過ぎません。
だから正当な戦争というものが存在するのです。正当な戦争とは極端な形態の政治手段に過ぎないのです。
正当な戦争を含む全ての戦争放棄というのは、政治の一手段の放棄ということになりますから、国家の責任放棄とも言えるのです。


わたしは日本に責任ある国家であってもらいたいと願います。
それは国民に対しても、国際社会の一員としてもです。

そして、集団的自衛権の行使は自衛権の解釈の拡大であって、自衛権を放棄していない(自衛隊を容認している)日本国憲法には抵触しようがないと考えます。
憲法でも法律でも、文章で定められた決まりごとについて解釈が分かれるのは当然です。
時代の要請に合わせて憲法解釈を変えていくことは許されないという主張は、特定の集団が信じる「原義」に固執するという点でイスラム原理主義に通じるもののようにも見えます。
柔軟性のない共同体に明るく長い未来があるとは私は思いません。


アフリカでは爆発的に増加する若年層が革新的な事業に取り組み、今後の経済成長と政治の成熟を確実に支えていくでしょう。
日本では減り続ける若年層が改革を拒み、緩やかな衰退を平和と誤認しながら、日本が経験したことのないあらゆる危機を迎えなくてはならないのでしょうか。
そのときアメリカの大統領は、「アメリカと日本はこれからも肩を並べて立ち続ける」と言ってくれるでしょうか。
思考放棄に他ならない「戦争反対」の精神で世界の公益の実現に貢献しない国を、対等なパートナーと呼んでくれるでしょうか。

日本の若者はこの国をどこへ率いていこうとしているのでしょうか。
革新や改革なくして、次の高みにたどり着くことができるとは私には思えないのです。
まずは、日本人が70年前に放棄した思考を現代の文脈の中で再開する必要があるのだと、私は強く思います。

お国のために

Posted by SJ on 05.2013 日本政治   0 comments   0 trackback
タイトルだけで右翼のレッテルを貼られそうですが、8月6日、皆様いかがお過ごしですか。
このタイトルだと15日のほうがふさわしいのかもしれませんが、最近あったことをまとめておきたくて。


一週間ほど前に日本へ帰ってきました。

古い友人、お世話になった人、新たに知り合う人、その他もろもろ
色々な人と会って、あるいはメールで、お話をしました。

こちらに戻ってくる前、
人生で今までなかったくらい、
人と話したいと思っていました。

それは、別に人との接触に飢えていたわけではなくて、
すごくポジティブに、人から何かを吸収したいという欲求でした。

実際こちらへ戻って、色んな人とお話ができて、だんだんと、その欲求が満たされつつあります。

その中で、敬愛する人の一人と「お国のために」という話をしました。
まあ、お酒の席で、冗談のように言った言葉ではあったのですが。
それにしても、「お国のため」なんて、わたし初めて言ったんじゃないかな、と。

何のことを言ったのかというと、戦争の話でもなんでもなく、
子供を産み育てることの話です。

ちょうどその方が、もうすぐご結婚なさるということで、
子づくりのご予定は、と伺ってみたのです。
その方は、むしろ子供を作るために結婚するというようなお話をされました。



ちょうど今日テレビで、50年後に日本の人口は三分の二になると聞きました。
あらためて恐ろしいことだと思いました。

日本の人口減少と国力の衰退については、英国でも学友と何度か話しました。
人口が減る。のみならず、高齢者人口の割合が増す。
経済の停滞どころか、日本人だけでは日本経済を支えられなくなる。
さらに、お金のある世帯からどんどん子供を海外へ送る。
海外で立派に教育を受け、世界のどこででも生きていけるようになった彼らは、
果たして日本で働き、日本で生きたいと思うのでしょうか?
今は治安の良さで知られる日本でも、
今後、移民が増え、経済の衰退で失業者が増し、国庫も立ち行かなくなれば、
犯罪も増し、政府への不満から暴動も起こりえるでしょう。
そんな風に治安が悪化すれば、あえて日本に戻る理由など何があるのでしょうか?
国際人となった日本の未来の世代が、日本にこだわる理由などあるのでしょうか?

もちろん日本に留まる人間もいるでしょう。
経済的な理由か、仕事上の必要性か、土地への愛着か、なんにせよ、
留まる人間はいるでしょう。
でも、富裕層がこぞって子供をインターナショナルスクールに送ったり留学させる今の風潮を見ていると、
今後、その流れが加速し、頭脳流出・人材流出に拍車がかかるのが容易に想像できます。
そうなれば日本経済はどんどん低迷し、政治も機能しなくなる。
安心して住める国でなくなる。
すると、日本に留まっている人たちも、海外を目指すようになりはしないでしょうか。

ゆっくりと、でも確実に沈みゆく船。
操縦席に駆け込んで事態を打開しようとする人間がいるでしょうか?
日本を救いたいと願い、動く人間がいるでしょうか?

私は不安になります。

広がる政治不信、
ひずむ社会、
機能しないコミュニティ、
壊れゆく家庭、
何かを失いつつある個人。

全て事実。
実際、この国に何があるか?

この国難の時代にも投票に行かない有権者。
農村部の過疎、嫁不足。
孤独死、いじめ、気付かれない虐待。
ひきこもり、モンスターペアレンツ、DV。
ネットや機械への過剰な依存、その場の流れで面識のない人を殺せる若者。

こんな暗い話ばかり聞いていれば、この国に誇りなど持てないでしょう。
そうして、どんどん日本を捨てて、海外へ渡るのでしょう。

そうやって、いつか日本人の国が滅びても。




お国のために、と言って、戦時下には多くの日本人が命を落としました。
日本人の国を守るために。
日本の国土を守るために。
そこで暮らす、愛する家族を守るために。
そして、日本の歴史を終わらせないために。

今、平時を生きる私たちが、お国のためにできることは何でしょうか?
日本の歴史をここで終わらせないために、できることは何でしょうか?
日本語を守り伝えていくこと。
日本文化を伝承していくこと。

その大前提として、未来を担う日本人を産み育てること。

だから、結婚して子供を作ることが、
もっとも身近な、お国のためにできることなんだろうと思ったのです。





そうは思っても、簡単には奉公できないのも現実。
とりあえず、今はただ必死に生きるしかないのでしょう。
まだ数年、自分のために生きてもいいでしょう。
その間にじっくり考えればいいでしょう。

私は日本人であることを誇りに思うから、
最終的には、どうにか国の役に立てればいいと思います。
この国が消えるのは見たくないから。


皆さんも同じ気持ちであることを願います。

アフリカを通して日本を見る

Posted by SJ on 27.2013 日本政治   0 comments   0 trackback
今回は、アフリカ研究を通して湧いた日本の歴史問題に関わる雑感を。

昨晩、同性愛者の権利についてクラスメイトが熱く議論していました。
同性結婚やそれに準ずる制度が世界的に認められつつある風潮を受けてのことですが、
国籍に関係なく色んな考えがあるものです。

同じ土俵で、時に白熱しながらも建設的に議論していたのがイギリス人とナイジェリア人という、
旧宗主国の人間と旧植民地の人間というのも見ていて面白かったです。

ちょうど先日、同性婚法案に関するニュージーランドの国会での答弁動画を見ましたが、
うまいなあという印象でした。
わかりやすく、ユーモラスに、どちらかというと扇情的に語るということ。
政治家に雄弁さは必須だと個人的には思います。
もちろん内容が伴っていなければいけませんが・・。

ところで、日本で同性愛者の権利はあまり議論されませんね。
欧米に比べて、同性愛を公言しにくい風潮がまだまだ強い気がしますし、
組織的に権利を主張する段階に至っていないのでしょうか?

そんなところから、ふと、日本という国はけっこう保守的な国なのかなと思ったのです。

と同時に、保守主義って何だろうと考えました。

ちょうど今日、久々に日本のニュース記事を見ていたら
また韓国と歴史認識やら靖国やらで小競り合いしている様子。

自民党=保守というイメージがある(ウィキペディアもそう言っている)けれど、
自民党は一体何を保守してるのでしょう?
代々受け継がれてきた歴史観(村山談話に代表されるような、一部の人が自虐史観と呼ぶ類のもの)に挑戦しているという点ではむしろ革新的では。
国粋主義?全体主義?なんだかどれも日本というコンテクストでの意味が曖昧。
最近よく右傾化なんて言うけれど、そもそも右とか右翼ってどういうこと。
国内外の報道を色々見ていると、たぶんナショナリストという意味で使われているのでしょうけれど、
実際は中韓に強硬ないし批判的な姿勢を取れば即「右翼」のレッテルを貼られている気がします。
慰安婦、南京虐殺、或いは太平洋戦争の侵略性そのものの認識を見直す歴史修正主義は恐らくその筆頭。
既存の、戦勝国により構築され正当化された歴史観を見直すということがそれ即ち右翼と。

地域研究の学生から見れば、馬鹿な、という思いです。
当たり前ですが、歴史の再解釈というのは、なにも日本だけの試みではないんです。

例えばアフリカの植民地支配について、日本の教科書でどのように触れられていたか。
そもそもアフリカについて記載が相当少なかったと記憶していますが、基本的には、
社会というものがまるで存在しない「未開の地」に白人が乗り込んでいって、
現地人を船に押し込んで奴隷としてアメリカ大陸に送ることによって巨額の利益を得、
アフリカの土地においても強制労働などで現地人を搾取した、
というような内容であったと思います。

欧州人=搾取する者、アフリカ人=搾取される者という単純化された構図、わかりやすいですよね。
でも実際はそんなシンプルなものではありません。

欧州人にも色んな人間がいました。
行政官、人類学者、冒険家、伝道師、炭鉱労働者。
それぞれが違う関心を持ち、違う義務を負う人々。

そして、アフリカ人にも色んな人間がいました。
奴隷にされた人、その家族、強制徴用された人、その家族。いわゆる搾取された人。

一方で、伝道師が開いたミッションスクールで教育を受け、行政機構で職を得た者もいました。
学業なり仕事なりでとりわけ高い評価を受け、宗主国へ留学した者もいました。

奴隷貿易を手伝った者もいました。
地域によっては、奴隷制は植民地化以前から(現地の異なる部族間で)行われていました。
植民地化で変わったのは、主に港に近い沿岸部の部族が欧州人から銃器を与えられ、
内陸部の部族を奴隷やプランテーション労働者として徴用したということ。

さらに、行政の一手段として作られたchiefという、集落で徴税等を直接管轄する職には現地人が登用されました。

この様な人々は搾取されたことになるのでしょうか?

特にchiefは、場合によっては植民地化される以前の社会においてはありえなかった強大な権力を得たため、
意図的に自らに利益を誘導し、その腐敗ぶりに憤慨した住民たちが欧米人の行政官にchiefを交代させるよう請願した例もあります。

このように、アフリカ人の中にも、欧米人の搾取に加担した者や、chiefのように自ら搾取した者がいたのです。
こういう、自主性とか主体性といった類のものを英語でagencyと呼びます。
植民地の人間にも、立場によって相当の幅があるものの、確かにagencyが存在し、
事実それによって利益を得た者もいたのです。

アフリカの歴史は、この、現地人のagencyという観点から再解釈がなされてきています。
人類学者の中には、強制労働者すらもagencyを発揮し、むしろ欧米人を利用したのだと解釈する人もいます。
賛否はありますが、これが建設的議論というもので、学問のあるべき姿だと私は認識しています。

このような構図が、当然ながら日本の歴史にも当てはまると私は思います。

しばらく前に中山なりあき議員が国会で慰安婦の動員に関する定説に疑問を呈しましたが、
たしかその中で触れられていたように、
慰安婦はそもそも有給(当時の朝鮮人女性にとっては破格の高給)の売春婦であったとか、
実際の動員は朝鮮の民間業者が請け負っていたとか、
そういう、現地人のagencyが必ず存在したはずです。
そもそも朝鮮半島の行政はほとんど現地人が担っていたという話も聞いたことがありますし、
何が本当で何が虚偽かは私は判断できる立場にありませんが、
朝鮮人=搾取された人々という見方は、控えめに言っても偏ったものであると言わざるを得ません。

国会議員が議会で提示するような、検証に値する論拠(当時の新聞記事や書類)があるにも関わらず、
歴史の再解釈を「右翼」のレッテルの下に糾弾し封殺するのは、いわば思想統制であり、
既成概念に疑問を呈することを拒む、学問の衰退でもあります。

地動説然り、学問の発展はいつだって既成概念に疑問を投げかけるところから始まります。
反証による新しい真実の発見。

既成概念を標榜し奉ることの、その先に一体何があるのか?
停滞、そして衰退でしょう。
変化を忌避するということは一切の進歩を拒むこと。
70年近く前の見解を固持することが未来志向だという理論が私には理解できません。

この記事をお読みの方々は私を右翼と思うのかもしれません。
もしそうなら、それはそれで構いませんが、そのように思う人々がいるとしたら、なぜ
歴史の再解釈という、歴史学において広く繰り返されてきた建設的で知的な営みを拒絶するのでしょうか?
なぜ戦勝国の弾劾によって既成概念化された見解を唯一絶対の真実だと信じるのでしょう?
なぜ知的な問いをすることが右翼なのでしょうか?

自国の歴史を他国の解釈に任せるとはどういうことでしょうか。
日本人はagencyを失ったのでしょうか?

右翼とか保守とか言うけれど、いま、日本に保守すべきものがどれだけ残っているのでしょうか。
必要なのは保守でなく復興ではなかろうかと、私は最近思うようになりました。

日本人は独特な長い歴史を持ち、優れたな技術を次々に生み出す、誇り高い民族であったはず。
ところが、改憲して軍隊を作ることになったら日本を出るとか子供を海外に逃がすとか言う人がいます。
彼らは母国が危機に瀕したときに国を守りたいとも思えないのでしょうか?
安全と豊かさを享受するだけしておいて、有事には逃げ出すとは。

日本人はどこで誇りを失ったのでしょう。
長く安寧というぬるま湯に浸からされたために何かを忘れてしまったのでしょうか。
世界はそれほど穏やかではないし、性善説など理想論に過ぎないし、
agencyを駆使して自ら刷新する努力をしない国家には、きっと衰退の道しかないでしょう。

そして、日本が自国の歴史を見直すことをさせないよう外圧をかける国々は、批判されて然るべきです。
定説に自信があるなら黙って見ていればよいものを、あらゆる手段を駆使して事を荒立てるのは、
歴史の再解釈によって既成概念と異なる真実が明るみに出るのを恐れているように見えます。


つまるところ、政治も外交も経済活動も宗教も、世界の全てはパワーゲームで、
利権の奪い合いなのかもしれないと、ふと悲観的になるときがあります。
この世に正義など存在しないのだと。
それが人間の性なのだと。



それでも夢を見る。正義を求める。

それも人間の性でしょうか。






論点を定めずつらつら書いたため、まとまりのない文章になりました。
乱文で申し訳ありません。
長々とお読み頂きありがとうございました。

慰安婦関連のニュースに関して

Posted by SJ on 01.2013 日本政治   0 comments   0 trackback
アウンサンスーチー女史が韓国で「日本の歴史認識に苦言」とのニュースを見まして。

ヤフーニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130201-00000023-yonh-kr より引用↓(””内)

”スー・チーさんは「日本の帝国主義に立ち向かった父は『日本人個人を恨んではいけない。誰にでも長所・短所があるため短所ばかりをみて恨んではいけない』と言っていた」と話した。”

とのことですが、日本軍の援助を受けて独立戦争を戦ったアウンサン将軍の娘さんが
「日本の帝国主義に立ち向かった父」なんて不用意な発言するかと疑問に思い、
英語ソースを探しました。

記事の出所の韓国のYONHAP NEWS AGENCY英語版
(http://english.yonhapnews.co.kr/national/2013/02/01/23/0301000000AEN20130201007100315F.HTML)より引用↓(””内)

”Mentioning advice from her father who stood against the colonial rule by Japan, she also asked the people here not to harbor hatred toward Japanese individuals.”

引用符がないですし、明らかに”who stood against the colonial rule by Japan”
(=”日本の帝国主義に立ち向かった”)は編集者が挿入した文句にしか見えませんね。

ちなみにこの記事、
”Speaking about the divided Korean Peninsula, Suu Kyi called on South Koreans to have "confidence" in the possibility of unity while accepting differences, according to the officials.”

という、南北朝鮮の統一に関する部分での"confidence"以外に一切引用がありません。


発言を記録した議事録が見つからない(一市長との会談なのでそもそも無いのかもしれない)ので
どちらが真実なのかは確認できませんが、会談は英語で行われた可能性が高いので、
英語(引用一切無し)の方が事実に忠実なものと推察します。

日本語記事を書いた方は何を思って
「日本の帝国主義に立ち向かった父は『日本人個人を恨んではいけない。誰にでも長所・短所があるため短所ばかりをみて恨んではいけない』と言っていた」
とわざわざかぎ括弧をつけたのか理解に苦しみますが

(意図的だとすれば、日本人の対ミャンマー感情を悪化させたい?
または有名なスーチー女史の言葉ということにして自分の歴史観を正当化したい?)、

言っていないことを言ったことにしたのであれば、これは偏向報道を超えて捏造報道でしょう。

「誰でも過ちを犯すことはあるが、過ちを認めることをためらうことこそ本当の過ち」。
あなたの選んだ言葉ですよ、記者さん。捏造は過ちではないのですか?



あと、関連のニュースを探していて、アメリカの慰安婦追悼石版関連のものに目が留まりました。
表題”In U.S., ‘comfort women’ plaques raise tensions”(=”米国で「慰安婦」石版が緊張をもたらす”)
(出典http://koreajoongangdaily.joinsmsn.com/news/article/article.aspx?aid=2966473&cloc=joongangdaily|home|newslist1、引用は「」内)

2年前にニューヨーク郊外に設置された石版の内容は以下。
「The first plaque reads: “In memory of the more than 200,000 women and girls who were abducted by the armed forces of the government of Imperial Japan, 1930s - 1945. Known as comfort women, they endured human rights violations that no peoples should leave unrecognized. Let us never forget the horrors of crimes against humanity.」

拙訳:
「最初の石版には”1930年代から1945年に大日本帝国政府軍により誘拐された20万人以上の女性と少女を記念して。慰安婦として知られる彼女達は、全ての民族が看過すべきでない人権侵害に耐え忍んだ。人道に対する犯罪の恐怖を決して忘れないようにしましょう。”と書かれている。」

現在、2つ目の石版の設置を検討しているようですが、設置地域の政府高官は下記コメント。
「“We want to be very clear that it was the Imperial Japanese armed forces and not the government that, according to our historical research, committed these acts.”」

拙訳:「”私たちの歴史調査により、このような行いをしたのは大日本帝国政府ではなく大日本帝国国軍であったことがわかった。(2枚目の石版では)この点を明確にしたい。”」

一方で、石版の設置を起草した韓国系アメリカ人コミュニティーの指導者のコメント。
「“Human trafficking is a serious human rights violation, and the comfort women were the largest government-organized human trafficking case in the 20th century”」

拙訳:「”人身売買は重大な人権侵害であり、慰安婦は20世紀の最も大規模な政府に組織された人身売買であった。”」」

慰安婦の動員について、政府主導でなかったと調査により明らかになったと政府高官が述べる一方で、
活動家は政府主導との見解のようです。

とりあえず、内輪で意見まとめてくれないものかな。
と読んでいてあきれてしまったので掲載しました。
あと、誘拐と人身売買って違う気がするんですけどどっちにしたいんでしょう。

この程度の認識と整合性でよくもまあ世界中で大声で騒げるものですね。

以前別のところで目にしたのですが、
元慰安婦と自称する女性の説明も全く整合性がないらしいですね。
(家に日本の軍人が押し入ってきたと言ったり、戸外にいた時に連れ去られたと言ったり。)


アインシュタインだかの言葉だったと思いますが、
人は学べば学ぶほど、つまり物事を知れば知るほど、自分の無知を思い知らされるものです。
無知を自覚した人間は無責任な発言などできないものです。

無知も捏造も、このインターネット時代にはありふれすぎて感覚が麻痺しているのかもしれませんが、
外交は少なくともそれではいけませんよね。
学びに基づく対話。これが必要かと思います。

  

プロフィール

SJ

Author:SJ
大阪生まれ、東京かぶれ、オーストラリア、ナイジェリア経由、2013年英国にてアフリカ研究修士号取得。
関心事項はアフリカ、開発、国際情勢、日本の政治・社会、メディア。
趣味は海外旅行と映画鑑賞、写真撮影。
世界で一番好きなものは猫(大小問わず)。

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