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ネット世論と日本の未来 -「国連の存在、意味があると思う?」-

Posted by SJ on 22.2016 日本社会   0 comments   0 trackback

yahoo.jpg


「国連の存在、意味があると思う?」

Yahooでこんな意識調査が行われていて、まず設問に驚いたけれど、(暫定の)投票結果にもっと驚いた。
投票者の実に3分の2が、国連の存在には意味がないと思っていること。
ついでに、投票者の圧倒的多数(約84%)が男性ということ。

まず、「国連の存在、意味があると思う?」という極端な設問は、国連の存在意義を疑問視している人間からしか出てこない(と思う)ので、設問自体が主観で歪んでいる。
国連の存在意義に疑問を持っている人でなければ、こんな根本的なところに焦点を当てず、「国連は求められる役割を果たしているか?」といった設問を用意するだろう。
大戦後何十年も存在し続け、今も世界中で活動している世界秩序維持のための機関を取り上げて「意味があると思う?」というのは、自然に湧いてくる疑問とは思えない。

実際、コメントを見てみると、「戦勝国がー」「拒否権がー」「紛争解決能力がー」といった内容が多いので、存在意義云々というより国連は機能不全だ、という意見が主流なのかと見える。
ただし、コメントがどの選択肢に投票した人のものは区別できない作りになっているので、投票内容(「意味がある」 又は 「意味がない」 又は 「わからない」)と回答者の意図のずれがどの程度かはわからない。
とは言っても、(「わからない」は除外するとして)こんな巨大国際機関の存在意義は、ある・ないの二元論で語べきものではないはず。
そもそも、存在意義とは、自動的に降ってくるものではなくて、履行される中で生み出されるものではないのか?
国連を意義深いものにするのは、ほかならぬ加盟国、つまり我々自身のはずではないか。


この手のネット投票は、多分そのトピックに関心のある人しか参加しないので、否定的な意味で強い関心を持っている、要はアンチ国連と言うべき人々が殺到して「意味がない」票が伸びているのだろうと思われる。
しかし、それにしても、反対に「肯定的な意味で強い関心を持っている人」が少ないのだとしたら、それは国際社会で(主に国連への拠出金という観点で)主要な地位を占める国の国民としては、かなり心もとない。

シリア内戦やら難民問題のニュースが出るたびに、国連の対応力を批判する意見が多いことには前々から気づいていた。
けれど、それが「国連改革を!」とか「日本の発言力の向上を!」とかいった建設的な方向に向かわず、その代わりに、本当に「国連の存在は意味がない」といった考えに収束してしまうのだとしたら、色々な意味で大きな不安を覚える。

意味がない、と切って捨てるのは容易い。
事実、国連の仕組みには問題もあるし、対応できない課題も多い。
しかし、それを理由に存在そのものを否定してしまうのは、どう考えても乱暴、というか短絡的ではないか。
切って捨てるその背景に、十分な知識と理解に基づいた深い思慮がないのなら、それは思考の放棄以外の何物でもない。

思考を放棄する者には改善もないし、革新もないし、向上もない。要するに、よりよい未来がない。

また、参加者の大半が男性であることにも一抹の不安を覚える。
国連というトピックに関心を持つ女性が少ないのであろうか。
国際協力の分野では男性よりも女性の活躍が目立つのだから、本来なら女性の参加が多くても不思議はない。
そういった女性はこういう場での意思表明に関心がないのであろうか。
いずれにせよ日本は圧倒的に男社会で、政治、経済、社会とあらゆる面で今も男性が覇権を握っている。もし国家の重要課題に対して女性が意見を持っていなかったり意見を述べたがらないのなら、それはそのまま、日本という国家の将来にも影響しうる。

私はこの意識調査が日本の縮図でないことを願ってならない。
日本には、建設的な思考に基づいてよりよい未来を切り開いていける人々が多くいるのだと、そして、女性は日本の未来にもっと積極的にかかわっていける強い存在なのだと、ただそう願ってならない。

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戦後70年談話 謝罪を超えて未来へ

Posted by SJ on 15.2015 日本政治   0 comments   0 trackback
平成27年8月14日、終戦70年に合わせて安倍首相が内閣総理大臣談話を発表しました。
(談話全文 http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html)

国内外で様々な批評が行われていますが、最近の国際情勢や国内の政治の動きに照らして、自分なりの解釈を書き留めておこうと思います。

談話はまず世界的な植民地主義の時代の回想から始まります。
そしてそれが日本に与えた、正と負双方の影響。
日露戦争、第一次大戦を経ての、民族自決原理の萌芽と戦争回避のための国際社会の形成。
そして経済危機と、日本の国際社会からの孤立。
日本が第二次世界大戦へと突き進んでいった過程を、当時の国際情勢の文脈の中で振り返ります。

それから、このようにして戦争に至り甚大な被害を出したことへの痛惜と、戦没者、戦争被害者への哀悼。
このような過去の上にある現在の日本の平和への決意。
歴代内閣の「反省とお詫び」の継承の確約と、アジア諸国の平和への貢献。
日本を国際社会に復帰させてくれた諸外国の寛容さへの謝意。
謝罪の宿命を次世代に負わせない決意。
戦後日本人の努力と国際社会の寛容さを語り継ぎ、世界の平和と発展に尽くす決意。
法の支配、女性の人権、自由で公正で開かれた国際経済システム、貧困撲滅といった価値の尊重。
こうした国際貢献を支える「積極的平和主義」。
日本国民との結束の呼びかけ。

一節一節語りかけるように練られた談話は、大まかに振り返るとこのような構成になっています。


批判的な意見で代表的なものは、
「安倍首相は自分のことばとして反省やお詫びを述べなかった」というもの。

談話から該当部分を引用すると、
「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。」
と、「お詫び」や「反省」は歴代内閣の表明した立場の引用としてのみ言及されています。

しかし、ここで見落としてはならないのは、反省とお詫びへの言及と、その立場の継承の確約にはさまれた「その思いを実際の行動で示すため...力を尽くしてきました」の部分だと思います。
つまり、この談話は、歴代内閣が述べた反省とお詫びの気持ちを、日本は東南アジア、極東アジアの国々への平和と繁栄への尽力という行動で示してきたと主張しているのです。
隣国が謝罪やそれを示す行動を要求し続ける中で、お詫びの気持ちも、それを示す行動も、日本はずっと示してきたと主張しているのです。

そして、この立場が、少し後に続く
「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
という言葉にも繋がっているのだと思います。

日本は70年間ずっと反省してきたし、お詫びの気持ちを行動で示してきた。
今後も日本は歴史を正しく語り継ぎ、世界への貢献を続ける。
そうした中で、戦争を知らない世代にいつまでも謝罪を続けさせるわけにはいかない。
そのような意思の表れがこの文章なのだと思います。

また、談話は、戦後日本が国際社会に復帰できた背景に、諸外国の寛容さが欠かせなかったことを強調しています。
具体例を複数挙げ、戦争被害者や元戦争捕虜への感謝を繰り返し述べます。

一部を引用すると、
「戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。」
このように述べています。

個人的に、この談話が前向き、つまり未来志向だと感じたのは、これからの国際貢献の方針に触れた部分ではなく、まさにこの部分があったためでした。
日本が犯した過ちについて、反省やお詫びを表明するのは難しいことではありません。
誤った行動をとったこと、多大な犠牲を生んだことは誰の目にも明らかだからです。
しかし、その後、日本が無事に国際社会に迎え入れられたことを振り返り、その陰にある戦争被害者や戦火を交えた各国の寛容さに謝意を示すということは、真正な反省の念がなくてはできないことだと思います。
私はこの感謝の表明の底に、中国や韓国が年々声高に要求する「謝罪」を超えた、痛切な反省を読み取りました。

予期されていたことですが、この談話に対して、韓国市民から「偽物の謝罪は必要ない」などと反発が出ています。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150815-00000068-jijp-int.view-000)
同国の朴槿恵大統領は、「残念な部分が少なくない」と不満を述べ、謝罪と反省の意志を具体的な行動で示すよう求め、特に慰安婦問題について「速やかに適切に解決することを望む」と従来の言説を繰り返しました。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150815-00000035-asahi-int)

残念ながら、韓国政府や一部の韓国国民は、彼らの思い描く形での謝罪や贖罪行為が提示されない限り、同じように不満を叫び続けるのだろうと感じます。
彼らは和解を望んでいるように見えません。ただ侵略の被害者として、償いを受ける権利を主張したいだけに見えます。

この談話が偽物の謝罪だというのなら、本物の謝罪とは何なのでしょうか。
戦争に直接加担したのではない現代の日本の首相に、「本物の」謝罪などできるのでしょうか。
既に終戦から70年の時が流れ、今の日本に生きる我々は、語り継がれた戦争の記憶に基づいてその惨禍を想像し、その想像に対して涙を流し、反省することしかできません。
70年前の戦争に対する謝罪を求めるには、あまりにも長い時間が流れてしまったのだと思います。

だからこそ、我々は謝罪を超えて未来へと歩むべきなのだと思います。
色々な国や国内各派への政治的な配慮も当然あったでしょう。
しかし、この談話で示された反省、お詫び、そして国際社会の寛容さへの感謝は、日本が国家として真摯に歴史と向き合ってきたことを明確に示すものであったし、談話の後半では、そうした戦後の歩みに基づいて、これからも、変わりゆく国際情勢の中で普遍的価値に基づいて国際貢献を行っていくという決意が強く表明されました。
総じて、この談話は日本国の深い自省とより良い未来への積極的な姿勢を示す素晴らしい内容であったと思います。

さらに、結びの部分では、
「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。」
とし、自由、民主主義、人権といった価値を現代の国際秩序の基礎と暗に示しています。

この部分では、南シナ海等で秩序を乱しつつある共産主義国家中国への牽制も当然意識されているのでしょうが、今年に入ってから日本外務省が韓国に関する記述から「自由と民主主義、市場経済等の基本的価値を共有する」という文言を削除したこと(関連記事 http://www.sankei.com/politics/news/150304/plt1503040025-n1.html)も念頭に置くと、韓国への牽制も垣間見えてきます。

談話をめぐる国内外からの批判は続くでしょう。
長いわりに内容が薄いという日本国民からの批判も多いようですが、戦争への深い反省と、戦後日本の歩み、特に国際社会の寛容さとそれを背景とする日本のアジア諸国ないし世界的な平和と繁栄への貢献と、そしてこの先の日本の方向性、すなわち積極的平和主義と、中韓を睨んだ政治的戦略を明確に示したという意味で、内閣総理大臣談話として大きな意義のあるものであったと思います。


末筆になりましたが、平成27年8月15日、終戦から70年を迎えたこの日に、筆者も一人の日本国民として、遠い空の下から全ての戦没者に深い哀悼を捧げます。

若者が描く未来 -アフリカと日本の若者の対比-

Posted by SJ on 26.2015 日本政治   0 comments   0 trackback
アメリカのオバマ大統領が、今日7月26日の夕方まで東アフリカの大国ケニアを訪問していました。
ケニアはオバマ大統領の父親の出身地ということで、オバマ大統領の「帰郷」にあたってケニアは熱狂的な歓迎ムードに包まれていました。
わたしはケニアに身を置く人間として、大統領の発言やケニア市民の反応を興味深く見ていました。

ケニア国民に向けて今日スタジアムで行われた演説で、オバマ大統領は「ケニアは岐路に立っている」と言い、ケニアの発展のために必要であり、アメリカが協力していくべき分野として、腐敗を排した民主主義の確立、若者や女性への機会提供、部族や宗教対立を乗り越えた国民意識の醸成、の3点を挙げました。
(動画(英語、字幕なし):https://www.youtube.com/watch?v=cWW7KaRMDI0)

特に、若者の活躍がケニアの発展に欠かせない、だからアメリカはケニアの若者に投資する、という旨の発言には、会場のケニア市民から幾度となく送られた喝采の中でも最も大きな喝采が送られました。
今日の演説に先立ち、大統領は起業家の集うイベントで開会の式辞を述べ、若い起業家の活動を視察もしました。
そして今日、これからのケニアを、そしてアフリカを率いていくのは、若者だと、強い期待を口にしたのです。

大統領はこのように言いました。
「活力と、理想と、楽観主義に満ちた若者たちが、アフリカを次なる高みへ率いていくのだ。」
そしてケニア市民からの惜しみない拍手。


私は遠い日本を、日本の若者を思いました。

いま日本は安保法案で揺れている。
SEALDsという学生を中心とする団体が脚光を浴びている。
彼らは「戦争するな」「憲法守れ」「安倍政権No」と叫ぶ。
賛同する大人も多いようです。野党党首を含む国会議員や、元首相、その他学者や有名人も。
(メンバーの一人のスピーチ:http://iwj.co.jp/wj/open/archives/254835)

SEALDsは、ホームページやフェイスブックを見る限り、たしかに若者らしく活力と理想と楽観主義に満ちているように見えます。
連日デモを行う活力。ホームページに記載された、「リベラル」らしい理想。憲法9条があれば戦争の心配はないという楽観主義。

しかし、彼らの理想に革新性はなくむしろ保守的で、なにより彼らの楽観主義は、安倍政権が目指す(と彼らが認識している)未来への悲観の裏返しでしかない。

それから、先般朝日新聞に掲載された「日本は愛せない国になっていく」という投稿文。
22歳の大学院生が書いたものだということですが、SNSで拡散されていました。
投稿者は、日本は「愛することもはばかられる」と言います。
その背景には、日本が凋落しつつも激動する時代の中で成長し、「ゆとり世代」と揶揄されながらも国家への奉仕を求められる(と本人が感じている)ことへの不満があるように読めます。
そして、安保法案の成立によって、若い世代が戦争に参加されられるのではないかと恐れているように読めます。
(掲載先: https://instagram.com/p/5Vh0xEEj5N/)

この22歳の投稿者は、明らかに自分の置かれている状況に不満を募らせており、自分たち「ゆとり世代」は「捨て駒」として生まれたのか、と政府に不信感を持っています。
この主張も、同様に、彼女の目に映る「安倍政権が目指す未来」への悲観のストレートな表れでしかない。


わたしは、ケニアでオバマ大統領に喝采を送ったケニアの若者と、時を同じくして国会前でシュプレヒコールをあげる日本の若者を想像しました。
日本の若者の活力と理想と楽観主義とは、現状への不満や政府への不信や将来への悲観の上にしか生まれないのか?
若者らしい理想とは、保守的でなく革新的であるべきではないのか?
若者だけに許される楽観主義とは、新たな地平を開くための好奇心と向こう見ずな自信に満ちたものではないのか?


オバマ大統領は同じ演説の中で、ソマリアに拠点を置くテロ組織アル・シャバーブとの戦いについて述べました。
「アル・シャバーブとの戦いの中で犠牲となったケニア兵士に感謝している。アメリカとケニアはこれからも、テロとの戦いが終わるまで肩を並べて立ち続ける。」

前掲のリンクのスピーチの中で、SEALDsのメンバーはこう言いました。
「武力に頼る未来なら私はいりません。人殺しをしている平和を、私は平和と呼びません。」
「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生えない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の中で聞く幸せを、私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。」

この若者の言う「平和」とはなんと自己中心的で視野の狭いものなのでしょう。
シリア、イラク、イエメン、ナイジェリア、ソマリア、ケニア、ブルンジ、南スーダン、コンゴ民主共和国、、、
世界では今日も争いで人が命を奪われています。
ある国では子供が戦場に駆り出され、命を落としています。
ある国では少女が体に爆弾を巻き付けられ、遠隔操作で「自爆テロ」の実行犯にされます。

遠く海のかなたで無垢な命が残忍に奪われていくのをテレビで見ながら、安全な日本で安穏とした日常を過ごすのが「平和」なのでしょうか。
残酷な世界を遮断して他人ごとにして、日本人は戦争に行くことがなくてよかったと、本気でそう思えるのでしょうか。
見まごうことなき悪がいわれなき罪で命を奪っているなら、できる支援をするべきではないでしょうか。
できる範囲で支援をするのが、責任ある国際社会の一員としての務めではないのでしょうか。
それとも、日本人の命はテロと戦う世界各国の兵士や自分の村を守ろうとする自警団員の命よりも尊いのでしょうか。

朝日新聞への22歳の投稿者はこう言いました。
「権力者は、庶民の生活も、戦場の実情も知らないのではないか。」

そうかもしれません。ではあなたは戦場の何を知っているのですか?
どうも安保法案反対派は先の大戦で頭がいっぱいのように見えますが、現代の戦争は先の大戦とは随分と構造も性質も違うはずです。

ケニアのガリッサで大学が襲撃され148人が死亡した事件は日本でも大きく報道されたはずです。
日本で戦争反対を叫ぶ彼女らと同じ大学生が、イスラム教徒でないというだけの理由で無残に殺されたのです。
武力攻撃に武力でもってこたえることは、確かに暴力の連鎖を生みます。
だからと言って武力行使を放棄することが暴力の歯止めになるとは、テロ組織の蛮行を見る限りはどうも信じられません。

紛争学を学ぶと、「正当な戦争」という概念に出くわします。
戦争は場合によっては正当であり得る、という考え方が世界的に定着しているのです。
もちろん正当であるためには様々な要件を満たさなければなりません。戦争を正当化するとかいった単純な話ではまるでありません。
しかし、日本社会ではこういう複雑な思考を全て放棄して、「戦争は絶対的な悪」とする考え方が定着しているように思います。
言い換えれば、日本人の平和主義とは、戦争の全否定であり、戦争についての思考の放棄に他ならないのです。
一部の人は同じことを「思考停止」と呼びますが、わたしはあえて「思考放棄」と呼びたい。
なぜなら、これは停止などという中立的なものではなく、日本人自身が意識的に自ら放棄した自発的行為なのだから。

話をもとに戻しますと、ガリッサ大学を襲撃したアル・シャバーブのようなテロ組織と戦うことは、正当な戦争のはずです。
(具体的な「正当な戦争」の要件はインターネット上でも見られます。)
正当だからこそ、ケニアとエチオピアを中核とするアフリカ連合軍が一丸となって前線で対応し、アメリカもそれを支援しているのです。
戦争は悪だ。戦場は悲惨だ。
それは正当なはずの戦争までもひとくくりに否定する自己保存の口実で、国際社会の一員としての責任放棄ではないのでしょうか。


安保法制反対派の中には、「自衛隊の後方支援が危険でないと言うのなら、まず首相が戦場へ行ってそれを証明してください」といった主張をする人がいます。
この主張が妥当だと思うなら、わたしはこういう主張をする反対派の方々にこう言いたい。
すべての争いを武力でなく対話で解決できると言うのなら、あなたがテロリストと対話してください。

戦地に送られるのは嫌だ。友人や我が子が戦地に送られるのも嫌だ。
政府は対話という外交手段で国を脅威から守るべきだ。
戦後70年に及ぶ平和と繁栄、安全を享受できたのは、すべて憲法9条のおかげなのでしょうか?
国家への感謝や愛国心はかけらもないのでしょうか。全部政府におんぶにだっこで、国民には責任と言うものがないのでしょうか。
これは単に、最近の日本の若者は責任感がない、というありふれたエピソードのひとつなのでしょうか。

「武力に頼る未来ならいらない」なんて、国家が言えるはずがないのです。
国家は国民を、国土を、主権を、そして国益を守らなければなりません。
戦争は政治の一形態に過ぎません。
だから正当な戦争というものが存在するのです。正当な戦争とは極端な形態の政治手段に過ぎないのです。
正当な戦争を含む全ての戦争放棄というのは、政治の一手段の放棄ということになりますから、国家の責任放棄とも言えるのです。


わたしは日本に責任ある国家であってもらいたいと願います。
それは国民に対しても、国際社会の一員としてもです。

そして、集団的自衛権の行使は自衛権の解釈の拡大であって、自衛権を放棄していない(自衛隊を容認している)日本国憲法には抵触しようがないと考えます。
憲法でも法律でも、文章で定められた決まりごとについて解釈が分かれるのは当然です。
時代の要請に合わせて憲法解釈を変えていくことは許されないという主張は、特定の集団が信じる「原義」に固執するという点でイスラム原理主義に通じるもののようにも見えます。
柔軟性のない共同体に明るく長い未来があるとは私は思いません。


アフリカでは爆発的に増加する若年層が革新的な事業に取り組み、今後の経済成長と政治の成熟を確実に支えていくでしょう。
日本では減り続ける若年層が改革を拒み、緩やかな衰退を平和と誤認しながら、日本が経験したことのないあらゆる危機を迎えなくてはならないのでしょうか。
そのときアメリカの大統領は、「アメリカと日本はこれからも肩を並べて立ち続ける」と言ってくれるでしょうか。
思考放棄に他ならない「戦争反対」の精神で世界の公益の実現に貢献しない国を、対等なパートナーと呼んでくれるでしょうか。

日本の若者はこの国をどこへ率いていこうとしているのでしょうか。
革新や改革なくして、次の高みにたどり着くことができるとは私には思えないのです。
まずは、日本人が70年前に放棄した思考を現代の文脈の中で再開する必要があるのだと、私は強く思います。

「絶歌」書評  生々しいほどに、人間

Posted by SJ on 02.2015 日本社会   0 comments   0 trackback
非難轟々の「絶歌」を読みました。

不当な批判を受けたくないので最初に断わっておきますが、私はお金を出してこの本を買ったわけではないので、印税が元少年Aに流れる云々といった類の批判はあたらないと思っています。

あと、ネットを見ていると、どこだかに転載されたあとがきだけ読んで批判している人がかなりいますが、それは全く持って理不尽です。
あとがきは、文字通り本文を読み終えた上で読むものであって、それ単体で何かの役割を全うするものではないでしょう。
私は汲むべきものは汲んだうえで真っ当な批評をしたいから、本文も全部入手して最初から最後まで読みました。
とりあえず一通り読んで数日経って、今頭に残っている印象を感想として書いておこうかと。
もう一度読み返せば、また新たな印象が生まれるのかもしれません。

さて、本題に入って、
この本を読んだ印象を一言で言うとすれば、「永遠の中二病」といったところ。

内容としては第一部が幼少期~逮捕の過程、第二部が逮捕後~社会復帰の過程で、第一部と第二部でかなり印象が違いました。

第一部は元少年Aの内面だけを照らし出したような感じで、グロテスクな描写もあれば過剰なほど感情的なくだりもあります。
行為というより本人の感情をひたすら辿ったような内容になっていて、例えば人を殺めた場面そのものは全く描写されていません。
それが本人の意向なのか出版社の配慮なのかはわかりませんが。
対して第二部は、人とのかかわり合いの中で元少年Aがどう感じたとかどう考えたとか、そういう描写が多いです。
第一部に比べてどちらかというと単調で穏やかですが、たまに挿入される幼少期の回想(理由もなく弟を殴り続けた等、読み手が戦慄するような内容が過去の客観的な出来事として単調に語られる)との対比が非常に印象的でした。

そうした印象の違いを乗り越えて一貫して感じたのが、元少年Aの自意識の強さ。
自分はこのように感じた、こんな行為をした、それにはきっと過去のこういう体験が関連しているのかもしれない、
といったように、過去のあらゆる行為や思考に思いを巡らせ、点と点とのつながりを模索し、自分の人となりや思考様式を見定めようとしているようでした。
また、逮捕後に色々な小説を読んだというだけあって文体はかなり文学的、具体的に言えば感覚的な比喩表現が多用されています。そうした全体的に遠回しな文章の中で、時折、堰を切ったように畳みかける感情の吐露。
そうした表現が、「僕はこんなにも感受性豊かな人間です。僕はこんなにも感情の起伏に富んでいるのです。」と読み手に訴えようとしているように見えました。
一方で、自分はモンスターだとか、こんな邪悪な自分が許され受け入れられるのが怖いとか、自己を強く否定するような記述も繰り返し出てきます。

とにかく、一貫して彼は自分を見つめていて、自分がこんなにも生々しく「人間」であるということを読み手に示したいのだという印象を持ちました。
年齢的には30代で、何年も社会で働きながら、このようにただひたすらに自己を掘り下げている点と、それを人に見てほしがっているらしい点と、あとは手の込んだ比喩表現や難しい言葉を多用するあたりを、「永遠の中二病」と表現しました。
彼は14歳、まさしく中二病の盛りから、7年半も通常の社会経験を積む機会を失ったのですから、当然と言えば当然なのだと思います。

そして多分彼はそれを自覚しています。「人間失格」に言及した時、現代の若者らしい滑稽な表現で、自分が自意識過剰であることを皮肉っているようでした。
この時の表現を含めて、ところどころに出てくる現代的な言葉から察するに、おそらく彼はかなりインターネットを見ているのではないかと思います。
そして、このように現代的で平易な、いわゆる俗語と言われるような表現が時折紛れ込んでいることから、この本を貫く文学的な文体は、かなり意識的に練り上げたものなのかなと思いました。
他方、既にふれたように、随所で彼は文字通り畳みかけるような感情の吐露を始めます。ある強い感情がはっきりと彼の中になければたぶんああいった表現にはならないだろうと思うような、その感情を表すための言葉をあるだけ並べ立てるような、非常に感情的な文章が連なります。
感覚的でありながら工夫を凝らして練り上げたような文体と、その中に織り込まれたほとばしるような感情的な文章。
ネットでナルシスト的だとか虚飾だとかいったように批判される理由はおそらくこうした表現にあるのだと思いますが、私にはこうした表現はどれも彼の「生身の人間」アピールであるように見えました。



元少年Aが事件を起こし逮捕されたとき、私はまだ小学生でした。
だから、「酒鬼薔薇聖斗」という印象的な名前と、生首、猫殺し、14歳、といったキーワード以外は基本的に記憶になく、当然当時の報道内容も、その後の流れもほとんど知りませんでした。
このように背景知識がほとんどなかったおかげで、この本はあまり先入観なく読めたつもりです。

本を読み進めながら、インターネット広辞苑で事件のいきさつや後日談を読んだ時に、大きな違和感を感じました。
ネットで見られる情報だけを読むと、事件当時の少年Aはまさしくサイコパス。他者への共感が著しく乏しい。
ネットの情報に基づいて描き出される少年Aは、「絶歌」で時折回想される幼少期の描写と通じるものでした。
理由もなく暴力を振るい、自制がきかず、罪の意識も皆無。
そして、そうした過去の振る舞いに対しては今も反省の念はない。

反省がないらしいという点が、この本に対して批判が渦巻く大きな原因の一つなのは明らかです。
そもそもこの本の出版自体が自己中心的な理由によるもので、反省の念があればできるはずがない、と。

犯罪者を擁護するつもりは毛頭ありません。
でも想像してみれば、元少年Aが純粋に本心から自己救済のためにこの本を書くしかなかったのかもしれないと思えるのです。

彼は社会復帰してから毎年被害者の親御さんに手紙を書いています。
その手紙の内容に、良い変化が出ているということは被害者の親御さんも仰っているようです。
でも世間的には事件はもうずいぶん過去のもので、「酒鬼薔薇聖斗」というサイコパスの性倒錯者が起こした猟奇的な凶悪犯罪として片づけられていて、多くの人は今更この事件に関心を抱くこともなく暮らしています。

「絶歌」は、元少年Aが、サイコパスの性倒錯者「酒鬼薔薇聖斗」も生身の人間であることを痛切に訴えかけようとした試みに見えます。
罪を許されたいのではない。全てを受け入れて欲しいのでもない。
邪悪な人間として断罪されたい。憎まれたい。自分の犯した罪の重さを感じ続けたい。
それでも、自分も生々しいほどに感情の起伏に富んだ一人の人間であるということを知ってほしい。
そのような訴えのように見えたのです。

この本には、もちろん眉をひそめるような記述もあるし、思わず口を覆う場面もありました。
元少年Aが重罪人であることはたとえ本人が死んでも変わらないし、今後何をどう努力しても赦しなど得られないでしょう。
でも、彼も生身の人間であって、色々な苦悩も当然あるし、メディアやネットの情報で作り上げられてしまった彼のイメージは、もうどうにも壊せなくて、彼はそれによって苦しんでいるのだろうと思うのです。

「絶歌」から二文だけ引用します。
”僕にとって「書く」ことは、自分で自分の存在を確認し、自らの生を取り戻す作業だった”。
”自分が自分でいられる安息の地は、自分の中にしかなかった”。

彼は常に作り上げられたイメージを背負わされて生きているのでしょう。
「酒鬼薔薇聖斗」、「モンスター」、「少年法改正議論の火付け役となった凶悪犯罪者」。
そしてたぶん、特定の人々にとっては「国家の威信をかけた更生プログラムの被験者」。
現在の彼を規定するのは過去の行いでしかない。彼自身の意識も、自分の過去から逃れられない。

でも現実に彼は様々な苦悩を感じていて、それを更生と呼ぶかはわからないけれど、事件当時と比べると考え方に変化もある。
元少年Aも一人の人間で、人間らしい苦悩を背負って生きている。
こんな当たり前のことを純粋に認めてくれる人がいないということが、”自分が自分でいられる安息の地は、自分の中にしかなかった”という言葉の意味なのではないでしょうか。



元少年A。あなたの本当の名前は知らない。
私はあなたが心を砕いて綴った本を読みました。
そしてこう思いました。
あなたは、生々しいほどに、人間なのだと。
どうかその人間らしい心で、これからも耐え難い罪の重さを感じ、その罪のせいで自らに向かうあらゆる刃に切り裂かれ、深い後悔と自責の念に打ちひしがれてください。自分を呪ってください。
そして、それでも、人間でいられることに感謝し、人間らしくあることを諦めないでください。

そしていつも思い出してください。
この世界には、あなたを憎みながらも、きっとあなたのことを正しく理解してくれる人間がいるのだと。
この世界は、残酷で、そして残酷なくらいに、美しいのだから。

日本人の人種差別に関する考察 -チャールストン乱射事件を受けて-

Posted by SJ on 21.2015 国際政治   0 comments   0 trackback
9人が犠牲になった米国チャールストンの教会での銃乱射事件。

逮捕された容疑者は21歳の白人青年。
容疑者のものと思われるウェブサイトには、黒人に対する反感とそれを正当化する彼なりの根拠が並べ立てられていた。
一日経って、なぜかそのサイトにアクセスできなくなってしまったため、正確な引用ができないのだが、昨夜読んだ記憶に沿って、人種差別について少し考えてみたいと思った。

恐ろしいと思ったのは、北東アジア人についての彼の見解だった。
彼はこんなことを書いていた。
「北東アジア人には敬意を持っている。人類が滅亡するとしても、彼らは何かを遺すだろう。彼らは生来非常に人種差別主義的だ。彼らは白人の良き同盟者となるだろう。」

この記述の前、彼は白人文化についての記述の中で日本を引き合いに出していた。
「白人文化は世界の文化となってしまったために、白人には独自の文化がないような感覚に陥る。でも、例えばもし世界中のビジネスマンが着物を着ていて、食事に箸を使っていたとしたら、日本人は独自の文化を持っていないように感じるだろう。」
といった具合に、日本文化に一定の理解を有していることがうかがい知れる内容だった。

この記述があることから、彼が「北東アジア人」と呼んだのはたぶん日本人、少なくとも日本人を含む人種なのだろうと思った。
思えば高名な故ハンチントン氏の「文明の衝突」では、日本文明はひとつの別個の文明として認識されていた(他方でアフリカの何十か国はアフリカ文明とひとくくりにされていた)。
日本人に生まれ日本で育った私にはよくわからないが、どうも日本人というのはしばしば固有の文化を持つ民族としてある種の敬意を持って見られているらしい。

ともあれ、この21歳のアメリカ人青年は北東アジア人、たぶん日本人を「生来非常に人種差別主義的」と見ていた。
確かに、と思わされた。

教育のせいなのかメディアのせいなのか本能的なものなのか、日本人はなぜだか白人に劣等感を持っていて、一方でアジア人や黒人を蔑視する傾向がある、というのは筆者個人の思い過ごしではないであろう。

脱亜入欧の精神が今も脈々と日本人の中に生きているのか、白人文化への憧憬が白人という人種そのものに伝播したのか、なぜなのかはわからない。
少なくとも筆者は初めて白人の国へ行った時にWhite supremacy(白人至上主義)と呼ばれる意識を肌で感じたし、白人に囲まれていると肩身が狭いような気がしたものだ。
ある英連邦の国で、南欧出身の老婦が面と向かって筆者をYellow(アジア人の別称)と呼んだこともあった。
ホームステイ先の夫人は、彼女の息子の恋人について「彼女はアジア人の血が入っているけど、綺麗な女性よ」と言った。

明らかに、白人至上主義は今も根強く存在する。たぶん多くの白人の意識の中に。
その意味では、21歳の白人青年がこういう考え方を持っていたことは何も不思議ではない。
実際、彼のウェブサイトの内容を見て、「恐ろしいのは、彼の書いた内容は多くのアメリカ人が思っていることだということだ」とツイートした白人女性もいた。

日本人は白人至上主義を無意識に受容している。白人に差別されたとしても仕方がないと思っている。
そしてその鬱憤でも晴らしたいかのごとく、他の人種を差別する傾向がある。
中国人や韓国人を含めてアジア人を蔑視する傾向は根強い。
それには、戦時中ないしもっと長期にわたってこれら地域を日本が占領したという経緯も関係しているのかもしれない。
或いは日本はアジアの他諸国と違い欧米列強に植民地化されなかったし、逆に列強の仲間入りを果たしたという誇りがあるのかもしれない。
単純に「脱亜入欧」の名残かもしれない。

そして遠いアフリカに対しても、失礼と言っていい先入観を持っている日本人は驚くほど多い。
個人的に、メディアの責任は大きいと思っている。
アフリカの地を踏んだことのある日本人はたぶん少数派だし、特に昨今のようにテロが蔓延しているようなイメージをメディアが作り上げてしまえば、それを疑いなく受容してしまう人が多いのはある意味仕方がない。
テロの他にも、呪術の話題や、エボラ出血熱騒動の時のギニアだかの田舎の住民の迷信など、日本人の感覚で理解できない話題ばかりが無責任に前面に出されて、日本人はそれを見て野蛮だとか未開だとか教育が行き届いていないせいだと言う。

教育というのは危うい概念だと思う。日本と韓国で教える歴史が全然違うのと同じように、教育とは国家規模での洗脳に近い。
理解できないものに出くわしたときに、それが相手方の教育の不足だと断じるのは、自身が受けた教育への盲信に他ならない。
特に日本の教育形態では、教わったことに疑問を持つことは良しとされないから、こうなってしまうのは仕方ないのかもしれないが。
たとえそれが科学的な「事実」だとしても、科学の存在すら知らずに生きてきた人に対して部外者がいきなり「これが科学的事実だからこれが正しい」と言って何になるというのだろう。彼らがそんなものを信じるはずがない。
彼らが持っている世界観を根底から壊すことなどできないし、してはいけない。
教育が行き届いていないと断じるのは簡単だし一見理性的なように見えるが、実は自分が受けた教育を盲信しそれが全世界に拡大されるべきだと思い込んでいるという意味で、甚だしく自己肯定的で差別的だ。

話しが少しそれるが、先般のネパールの地震の際に興味深い記事を目にした。
地震の被害者とされる幼い兄弟の写真がネットで拡散され、多くの人がそれに心を動かされ寄付をしたが、実はその写真は随分前に全然違う場所でとられたベトナム人兄弟のものだった、という記事。
興味深いのは、こうした「かわいそうな弱者」の写真は見る者を力づける、という記事の主張だ。
かわいそうな弱者を見ることで、我々は自身が優位にあると感じることができる。だからかわいそうな弱者を助けたいと思い、寄付をしたり、支援の手を差し伸べる、という議論だった。

チャールストンの容疑者は似たようなことを書いていた。
「もし人が犬を殴っているのを見たら、犬がかわいそうだと思うだろう。でももし犬が人を噛んでいたとしても、同じように人をかわいそうだとは思わないだろう。かわいそうだと思うのは、虐げられているのが弱者だからだ」といったような内容だった。
彼は、黒人が被害者となった事件が大きく取り沙汰されるのに対して、黒人が白人に対して犯した犯罪はまるで正しく報道されていないと主張していた。
彼は白人を人に、黒人を犬にたとえたのだ。そして、黒人ばかりが弱者として同情を買い救済を得ていると主張したのだ。

日本には米国での白人対黒人と似たような人種対立の構図がある。
言わずもがなだが、日本人対在日朝鮮人だ。
悪名高い在特会の主張はチャールストンの容疑者の主張と酷似している。
在特会は、その名「在日特権を許さない市民の会」から明白なとおり、在日朝鮮人は救済名目で特権を得てきたと主張しているのだ。
容疑者が「北東アジア人は良き同盟者となる」と書いたとき、もしかしたら在特会のことが頭にあったのかもしれない。実際、在特会は英語のニュースサイトでも時折名前が言及されるほど、悪い意味で有名だ。

相手は弱者だからと、自分たちが優位にあるうちは寛大な措置を取る。
しかし弱者が力をつけ数を増し、優位にあるはずの多数派を脅かすようになると、多数派は恐怖を覚える。
恐怖に駆り立てられた多数派は自己保存・現状維持の正当化のために強い人種差別意識を持つようになり、それがヘイトクライムへとつながるのではないだろうか。

在特会は日本でも強く批判されているが、批判の趣旨は、やり方(ヘイトスピーチ)が悪いという意見が大勢ではなかろうか。
橋本大阪市長と在特会代表の対談でも、橋本氏は「ヘイトスピーチはやめろ。政策を変えてほしいなら自分が選挙に出ろ」の一点張りだった。在特会の言う「在日特権」については議論もしなかった、逆に言えば否定もしなかった。

チャールストンの容疑者の考え方が、実はアメリカ人の多くが胸の内に秘めているものだと考える人がいるように、
在特会の考え方も、実は日本人の多くが胸の内に秘めているものなのではなかろうか。
大多数のアメリカの白人と日本人は、そうした考えが不適切だと自分自身を戒め、決して外に出さないようにしているだけかもしれない。
そうだとすれば、「弱者」がこれからもっと力を増し、多数派の権利を脅かすようになれば、こうしたヘイトクライムは徐々に支持を拡大していくのかもしれない。

日本人はチャールストンの乱射事件を対岸の火事だとのんびり眺めていてはいけない。
誰もが無意識に持っている差別意識を見つめなおし、向き合うことができなければ、同じような惨事が日本で起こる日も遠くないかもしれない。

  

プロフィール

SJ

Author:SJ
大阪生まれ、東京かぶれ、オーストラリア、ナイジェリア経由、2013年英国にてアフリカ研究修士号取得。
関心事項はアフリカ、開発、国際情勢、日本の政治・社会、メディア。
趣味は海外旅行と映画鑑賞、写真撮影。
世界で一番好きなものは猫(大小問わず)。

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